自分の中に毒を持て/岡本太郎
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岡本太郎は幼児の心をもつかむ。 関西に住むN.riverは、太陽の塔を幼いころから見ていた。 かわいくも、こわくも、かっこよくもなく、不思議で目が離せなかった。 理屈の通らないスゴさとは、なんぞや。 そんな岡本氏の絵画はグロテスクだ、ということで、 当時の画壇からあれは絵でない、と酷評されていたらしい。 太陽の塔だけでなく、確かに、何だかおどろおどろしい物が多い。 けれどそこに気を取られ、玄関口で引き返さなければ何かアル、 と思えてならないのだ。 渦巻いている、渦巻くほどの、呪いにも近い原始的なパワー。 畏怖、といえば格好がつくけれど、それゆえ近代では忌み嫌われていそうなもの。 それは偶然ではなく、岡本氏は狙ってやっていたものだと 理解したのは、こうして興味を持ち、著書を読み始めてからだった。 その中で岡本氏は言う。 ある婦人が一枚の絵の前で立ち止まる。 にっこり笑って「あらいいわね」なんて言うそれは、 「どうでもいいわね」と言っているようなものだ、と。 『クオリア降臨』でも茂木氏が書いていたことは、 ここにつながっているとN.riverは考える。 芸術作品に触れ、心が傷を受けたそれを感動というのなら、 「いいわね」などと言えることは果たして、絵に感動したからこそ出た言葉だろうか、と。 そう言う評価こそ、よくないと言われているようなものだ、 と、岡本氏もとらえている。 「きれい(心地よいもの)」と「美しい」は違う。 それはつまり「きれい」ものは美しくなく、「美しい」ものはきれいではない、 ということだ。 「美しい」ものには、感動というトゲがあり、だからして『自分の中に毒を持て』。 媚びることなく、本気で勝負。 掲げる岡本氏は、その生きざまで美に対するスタンスさえ示す。 亡くなって幾らも経つ岡本氏のイメージを、これを読む皆さんがどう持っておられるか分からない。 けれどN.riverの年齢ぐらいなら、奇妙奇天烈なおじさん、というのが一般的ではなかろうか。 だが本書を読めば読むほど、岡本太郎を知れば知るほど、 アカデミックで紳士で、情熱的なのに、これほどまでに繊細な人はいないんじゃないだろうか、 と思わずにはいられない。 彼の生き方そのものが、自分も傷つき人も傷つけるが、 決して嫌われることのなかった芸術作品だったと思えるのだ。 そこにごたごた理屈はない。 本気のスゴみが、潜んでいる。 だからして作品は、媚びたりしても通じない、幼児の心をも鷲掴みにするのだ。 ★いきなり書物から入るより 作品を目にしてから読まれることをお勧めします アート関係の方は制作のヒントがあるかも 小説形式を読むのが手間、と思われる方なら 「壁を破る言葉」等、名言集が便利ですよ |