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罪と罰/ドストエフスキー


ラスコーリ・ニコフは、自分の行為を正当だと屁理屈をこね、
気に食わない年寄りを殺した。
そして後悔し、一人の女性に救いを見出す。
本書『罪と罰』の覚えているあらすじは、こうだ。
そして本書に関して、一切の参考文献は読んでいない。
純正、N.river論の展開は、恥の大市でもあると心得て書いてみる。
(よりどりみどりやで)

ラスコーリ・ニコフに長らく付きうことになる本書で、
ようやく何が書かれているのかが閃いたのは、ずいぶん後半になってからだった。
それは、ニコフ君が殺したのは、果たして本当は何だったのか、というものである。

ああだこうだと言い訳を並べなければいけないほど、
殺すにあたって手ごわい相手だったのは、
N.riverは、老婆ではなかったのだ、と思っている。
それはニコフ君の中にある『良心』であり、
うっとおしく、無用の長物だとしか思えてならない老婆さえ『許容する心』
だったのだと感じている。

だからして、コトを成し遂げた後のニコフ君が、
いくら殺人を悔い、反省しようとしても、
法的に罪を償ったとしても、
ゆえに世間がもう許してやるよ、と言ったとしても、
自身こそが己に許しを見出すことができなくなるのである。

後悔の念に苦しむことで、すでに善人になろうとしているニコフ君だが、
むくわれず、自分と言うもののよりどころをなくして亡霊のように心さ迷う様は、
痛々しくも印象的だ。
あほたれやなぁ、何様かいい気になっとったからやで、と同情せずにはおれない。

最後、当時の社会では皆からさげすまれる位置にある娼婦、
ニコフ君は、その一人を慕って終わる。
女神のように彼女をとらえるニコフ君も、そんな彼へ普通に接する彼女も、
それが同質の原理、共感、だったとして、
彼女を女神と仰ぎ見るニコフ君の、そんな彼女にも及ばないという自己卑下の加減が、
もう何をしたって救われないんだなぁ、と悲しい。

情けは人のためならず。
というけれど、それは自尊心、自分自身を大事にするこであることにほかならず、
失ったニコフ君の有様に傷つけられながら、
N.riverはここでもまた、重たくも鈍い感動に浸ってみるのであった。
 
※ここでは『良心』と書いたが、N.riverはそれをキリスト教でいうところの許し、『神』ともとらえている。自分の中の『神』を殺したのだから、懺悔しても許してくれるものはもうおらず、これはだからといってキリスト教信者にのみあてはまらないだろうと思うところから、『良心』と言う言葉に置き換えてみた※


★確かに長い物語です
 読むにはそれなりの時間確保が必要と思われます
 ただし、近頃、読みやすい新訳? 版も 出ているようなので
 よっしゃ、と思われた方は、
 大型書店で 背表紙を見比べてみてはいかがでしょうか
 きっと読めば、しばし優越感に浸れますw