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燃え尽きた地図/安部公房


しかし安部氏の物語は独特である。
それでも結構な数をここへ挙げてのたまうわけは、N.riverは安部氏が好きだから、にほかならなない。

だからといってその好きは、理解しているからこその好きに、通じるわけではないことを公言しておこうと思う。掴めそうでつかめない、本当はよく分からないからソソラレル、そういう意味での好きだ、と了解していただければ幸いなのである。
ということで読者を振り払い本編は、少々マニアックな方向へ進んでゆくのであった。

さて、本書は安部氏の作品の中でも、馴染みやすい部類だったと思い出す。
そんな本書の荒すぎる筋は、女性からの依頼を受た探偵が、失踪者した夫を連れ戻すべく、手掛かりを求め夫の身辺を探り、足取りを辿る過程でやがて探偵もまた記憶喪失となり、探す夫同様、失踪してしまう、というものである。
中でもクライマックス付近にて、なぜ探偵は記憶喪失にならねばならなかったのか、は興味深い。


そんな本書が発表された1967年は、高度経済成長真っただ中で、
それまであった「村」という共同体が解体され、
「街」への移行、都市化が進んでいた時代と合致する。
先にも述べたように、安部公房とは社会とそこにある人間に焦点を置いて物語を紡いだ作家である、ことから、N.riverは、これら時代を踏まえたうえで記憶喪失の意味をひも解きつつ、『燃え尽きた地図』が意図するところについてを考えてゆきたい、と思うのである。

さて、物語の舞台(社会)は
①夫がそもそもいた場所
②失踪先
③追跡するために探偵が訪れる場所
の3つに分かれる。

まず①とは家庭である。
そこで連れ戻してほしい、と女が探偵へ依頼するそのわけは、
終始、夫、個人に対してどこか冷たい印象が拭えないように、
夫の身を案じてのことではないと読み取れる。
ならば理由は、失踪することで放棄された「夫」という役割を
失踪者へ再び負わせるための行為ではないのか、とN.riverは考えのである。
これは長男として生まれたなら、生まれた時から「長男の役目」がある等、
小さな共同体にある宿命的役割の象徴で、家庭はすなわち「村」である、とN.riverは推察する。

なら②は、「街」ととらえることができよう。
なぜなら夫は、
「街」が、「村」の備え持つ宿命的役割を持たない場所であればこそ、
失踪することが、紛れ込むことができたのであって、
(あれば、ヨソ者と弾かれる)
それはそもそも他者の流入によりできあがった「街」ならではの特徴と合致するからである。

ならば社会と人という視点から考えた時、
「村」から「街」へ失踪していった夫とは、
発行当時、都市化を余儀なくされた我々の、
「村」を捨て「街」へ向かう姿だ、と読むことができはしないだろうか。

またそれら「村」と「街」の関係は、本文にものでてくる「ネガとポジ」という比喩や
(互いは地続きと、グラデーションのかかるような関係にないということ)、
特性から、
我々が生活する場所として同等のものであるにもかかわらず、全く相いれない断絶したものだ、と推察することができる。


ならば果たして、
③という手がかりをかき集めたとしてそれは、
①の元にぶら下がる夫が夫であったときの行動範囲、人間関係をなぞる『地図』にほかならず、『地図』を拡張し、詳細に書き込んだところで、断絶をくぐり抜け失踪した夫へ、「街」へ辿り着くことはかなわないだろう。

失踪した夫を追うのであればむしろ、『地図』のことは忘れるしかなく、失踪先の手がかりをつかむべく村の『地図』を組み上げ、すでにその中に絡め取られてしまった探偵はだからして、記憶を(『地図』を)失う展開は必須となったのではないか、とN.riverは考えるのである。

「街」が個人へ宿命的役割を強要しない場所であればこそ、夫の失踪は「自由への逃亡」ともとれる。だからして安部氏は都市化に対し、開放感と、新しい可能性を感じていたのではないかと読み取ることができる。
だが一方で、失踪した夫の様子がまるで描かれていないことから、夫がそこでうまくやっている、とも言い切れず、
「街」が存在理由の希薄な場所であるだけに、求め、連れ戻されるがまま「村」での役割を全うする方が、よりよい生活を送れたのではないか、とも作品の中で余談は残されているように思えてならない。

いずれにせよ都市化は避けられないものである、と定まった時代。
いずれ誰もが夫のように「村」から「街」へ失踪しなければならぬ定めを持っていたはずだ。
だとして、そのとき我々は探偵のごとく「村」の『地図』を捨ててネガをポジへ点滅させ、
道を開いて「街」へ向かえるのか。

また可能となったとき初めて我々は都市という文明を手にすることができ、とどのつまり都市化とは、長らく続いてきた「村」での宿命的役割、その人間関係を捨てることにほかならない、
(文庫本の裏には、他人だけの砂漠の中に歩き出す、と書いてあるが)
と、本書をとおして安部氏が訴えているようにN.riverは思えてならないのであった。

ああ、ぐったり。
鼻血ぶーぶー、なんだな。
ティッシュが足りない……。
そしてちゃんと伝わるのか。
不毛……。
つまり血も出て、毛までも抜けるのか。
おぞましい。

ちなみに「村」と「街」の概念については、とりあげる安部氏作品の最後、
『砂の女』にも如実にあらわれているものと、先に申し上げておきたい。


★探偵小説、ハードボイルドもののようで
 ちょっと毛色が違うような雰囲気です
 登場人物も絞られていて
 関係があまり飛躍しません
 謎が謎を呼ぶまま終わってしまう
 印象があるやも
 その謎をほじくりかえす気力があれば
 楽しい物語です
 そしていうまでもなく『飲む読む』の論は
 N.riverが勝手に解釈し 上げ連ねている
 身を削った
 ものすごく恥ずかしい産物であることを
 どうかお忘れなく