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死海のほとり/遠藤周作


読むにあたって喫茶店へ出向くこともある。
だがこれは失敗だった。
ハマってエッセイやらなにやら読んでいた遠藤周作作品内
『死海のほとり』はのっけから大号泣の展開で、人前で読めず、
コーヒーだけをすすり帰ったN.riverなのだった。

物語は時代を隔て、二つの側面から進む。
現在、エルサレムを観光で訪れている男と、
過去、その地で言い伝えられているイエスの物語と、だ。

N.riverにほとほと痛かったのは
冒頭、イエスのパートである。
奇跡の人がやってくる、と人々はイエスの到着を心待ちにする。
期待度マックスだ。
だが、長い旅路を経て訪れたイエスはボロをまとい、みすぼらしく、
挙句、奇跡など起こせないフツーの人だった。
イエスは説くが、人々は騙されたと思い、期待していた分、激しく憤る。
石、投げ放題で、イエスをこてんぱんにやっつけた。
追われながらもイエスは恨み言を言わない。
むしろ、そうされることに甘んじる。
自身も、望み通りの人物でないことが申し訳ないのだ。
だから石を投げられることでもってして、
投げつけるしか手立てのない弱き者と共にあろうとする。
そして同じようにみなから疎まれたライ病患者の元へ向かう。
そこで看病をし、彼らの心の支えとなる。

石を投げさせることで寄り添うしかないイエスの救い方と、
石を投げずにおれないほど、奇跡を待ち望んでいた人々の切実さと、
本当に困っているのにイエスが訪れるまで誰からも相手にされなかった患者らの、
すれ違う様が、
それをどうにか満たそうと尽くすイエスの姿が、
切なかった。
やり切れなくて、
板挟みだった。
もう本書にはこのイメージしかない。

月並みすぎて嘘くさいが、
イエスが弱者に寄り添えたのは、イエス自身が底辺を這う者だからだ、
と感じて止まない。

病人になって初めて、病人の気持ちが分かるなど、
その立場に立って初めて、そこに在る者の本当が
実感できたりする。

だがそんな立場に陥ったからこそ、
自分のことしか見えなくなるのも真なり、ではないだろうか。
その垣根を乗り越えることが、まず最初の奇跡かも、
とN.riverは思うのだった。

徹底的に弱さと寄り添うキリスト像が描かれた本書は、
たとえそれが非現実的な愛だろうと、
身につまされるほろ苦い一冊なのである。


★最後 ゴルゴダの丘で
 イエスが処刑されるところまで
 話はつづき
 一方で観光はリアルにつづられてゆきます
 聖書を知らずとも
 何ら問題なく読めるものと思います
 完全無欠の神様よりも
 亜種でもこちらのイエスの方が
 案外 身近に感じるのでは?