www.central-fx-hyouban.com
だいたいで、いいじゃない/吉本隆明


人文、科学は、分からないからこそ食いついてみる。
腹を下すかどうかは、食ってから我がの耐性に如何をまかせる、
というのがN.riverのやり方である。

放っておけば人は慣れた、つまり経験のある知った場所へ場所へ寄ってゆく傾向にある。
安心、安定は、日常をつつがなく送るために必要な要素として、
任せて狭い世界に安住すればヤボな田舎者になりかねず、
若人であるうちは回復力も旺盛なのだから、知ったる場所を打ち捨てて冒険すべしと思うのである。

いや、地方について批判しているわけではなくて、メンタル面での比喩でだよ。
N.riverは己をイナカ者、としか思えないからそう書くのだな。
知ったる方の前へ出れば着飾っていたつもりのそれを身ぐるみはがされ、
最後に残った麦わら帽子で股間を隠し、走って逃げるような輩なのだから、なおそう思うわけなのだな。


さておき、お亡くなりになった報道で功績を知るというこれも、
いかに広く見ようとしていても、所詮、興味つながりでしか目は配れないという証だろう。
そして挑戦しようと手をつけるに至ったのは、
過去、書いた小説に通ずるヒントが記されていると感じた、これも興味つながりだ。
しかしながら買い求めるには勇気がいるわけで、ここでもまた図書館が登場すのである。

『だいたいで、いいじゃない』は、対談集だった。
青年の頃、敗戦を体験した吉本氏は、生粋の軍国主義者だったそうだ。
だが玉音放送にて、負けるはずがないと思っていた日本の敗戦を知ることとなり、
すべての価値、基準がいともたやすくひっくり返り、
無意味と灰燼に帰す体験を経たことで、
果たして自分は正しく社会を、世界を、認識していたのか、
そしてできるのだろうか、と疑念はわいて
突き詰めるべく思想家への道を歩むこととなっている。
ゆえに吉本氏は、概念をこねくりまわすだけに終わらない。
肉ある社会の動きに敏感なのである。

 だからして対談では、宮崎勉の事件を、オウム真理教の事件を、
サブカルチャーを、エヴァンゲリオン等を題材に挙げ、
それが今ある社会のどんな側面を反映しているのかを探り、
己の疑念を解く手がかりとしている。
N.riverの知るところでは別の場所で、宇多田ヒカルさんへも言及していたくらい、
世相には敏感であられた様子だ。

さて、悲しいかな、そのどれもがどれも知らぬ題材ではなかったが、
N.riverは吉本氏らが語るほど事象に詳しくはなかった。
これが悲しいほどついて行けず、身につかない。
唯一、震撼したのは、『生産を消費する』ことに対しての対談だったろうか。
(本書に含まれていなかったら、ごめんなさい)

近年、欲望が抜けている、と洞察される吉本氏いわく、
消費者が生産したものを消費するという当たり前の構図が消えた、らしい。
つまり何でも手に入る今、消費に苦はなく、消費することの手ごたえのなさに飽きたのだ。
そこでヒトごとではない、消費者はどうするかと問えば、
創る側に回るのである。お店屋さんごっこよろしく創る側へ回って、
そのスタンスを楽しみ、『生産を消費』するのである。
そう、読むだけに飽き自分も創り始めた、誰もが小説家になれるここもその顕著な例なのだ。
このことによって、生産、消費、と回っていたこれまでは、どう変わってしまうのか。
創る行為を消費してゆく霞が霞を食う構図は、
「消費と生産の境界点」で考察され、案外とおそろしいハナシだったように思い出す。

などと、知の巨匠と言われるだけに吉本氏は、それらどの命題に対してもインスタントな回答はしない。
本誌もまた吉本氏の思考の過程であり、何を疑問に思い、
どうとっかかりとして保留し、次につなげていくのか、
という氏の心の動き、思考の流れを知るものだと解釈する。
その恐ろしく広く、淡泊なようで複雑な、深い洞察に感嘆するばかりがN.riverの有様であった。

いや、『だいたいで、いいじゃない』って、そうした要領のいい把握が可能なことこそ、
言葉になっていなくとも本質をつかんでいるのだよう。
呟く己の負け惜しみが痛々しい、
先行き怪しげな吉本デビューとメモするのである。


長くなったので、ここでいったん、小休止。
残りは次回にて。


★対談の相手は大塚英志さんです
 むしろ大塚さんが吉本さんに話を聞いてもらっている、
 ふしが否めないので
 そちらに興味がある方こそ、オススメいたします
 宮崎事件、オウムサリン事件、リアルタイムで知る方もまた
 当時の空気を思い出し、いろいろ考えさせられるのではないかと、
 思いますよ