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遺書/吉本隆明


『遺書』は『だいたいで、いいじゃない』を返却後、
本丸『共同幻想論』へ突入すべく共に書店購入したものである。
しかも当時、書店には氏の特集が組まれていたため、
一番、読みやすそうなものを選んだ、
というチキンN.riverだ。
 

『遺書』というからして本書は、亡くなるいくらか前にそれを予感して書かれたエッセイ集であった。
そこで最初に記載された死についてが、N.riverには印象的と残っている。
死というものを語るにあたって、語れる者は100パーセントこの世にいない。
臨死は死に臨んだだけで、達してはおらず、その本質にまでは触れていない。
宗教は死をテーマにしているが、それは生きている者がそれゆえ死を恐れ、編み出した切実なファンタジー世界
であるからして、死後の世界からお釈迦様がやってきても、その世界観は生存している者が願望として作り上げた
ものにほかならず、事実とは異なる。
つまり、いくらコチラ側から観察を続けたところで、知り得ないのが死だ。
と、吉本氏は前提に、話を続ける。

エセ科学っ子のN.riverとしては、禿同だ。
だが、だからこそ吉本氏はいうのである。
何とかして『死』の正体を掴み取る方法はないものか、と。
なぜなら、肉体だけでなくブームも国家もいつかどこかでオワリを迎える。
含めて一個体である。
ならそこまでを解明してこそ、全貌を把握したことになるのではないか、
というわけである。
(いや、N.riverはそう解釈したのだよ)

なら死はいつも一方的に訪れるばかりで、
先だって述べたようにその側面は臨死体験であり、宗教としてつきつめ られるのみとなっている。
同時にそれが死に関する考察の限界であることも記した通りだ。

ならその限界を超えるべく裏側へ回る。つまり訪れるのを待つのではなく、迫りくる死の側からコチラを覗くことができはしないか、と吉本氏は考えたのである。
もし覗くことができたなら『死』とはどういうものかが分かり、欠けていたそれを補うことで全貌は把握できる、
と吉本氏は推測したのだった。
(た、たぶん。なにせこのあたりでN.riverの頭はもう、ぐでんぐでんだ)
 
だがこの発想の転換は、N.riverにとって奇想天外だった。
何しろ導き出された論の検証方法は、科学の実験である。
異なる視点からのアプローチにより導き出された共通事項が、対象の本質である。
二つの実験がお互いを補完することで、間違いなし、と証明する考え方だ。
(うまい例が、浮かばないよう)
だからして吉本氏は、どうすれば『死』の側へ回れるか、その方法を考えあぐねてらした。
もうN.riverにとっては、SFである。

続く題材も、家族、文学、教育と、身近なものばかりだ。
確か最後は、若者へのメッセージになっていたのではなかったろうか。

テレビで追悼番組があった時、詩人でもあった吉本氏は『言葉』についての自身の見解、言語論を語っておられた 。
『指示表出と自己表出』である。
(興味のある方は、ググってくださいね)
語り口調は穏やかで、シャイな印象。誤解されたくない。頭の中にあることをいかにそのまま他者へ伝えるか、で戸惑っておられるように拝見した。
氏の語られる内容はいささかハードなように思えるが、
実際、芯はハードだが、
原点はその人柄よろしくほんわか、優しさに包まれていると思えてならない。

近代哲学の基礎知識を網羅しなければついて行けない部分もあるやもしれないが、知らないところへ連れて行って
くれる著書の数々は、記憶の片隅にでも残しておくことで、いつか自分に「あれはこのことだったのか!」と、閃きを与えてくれる糧になるのではないか、と信じたく思う。

信じなければ、最大の難関へ挑めようか。
そうして『共同幻想論』へ手つけたのは、今年のゴールデンウィークのことだった。