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ブダペスト/シコ・ブアルキ


出会いは、某書評SNSだった。
短かいながらも興味深く本書が紹介された書評を目にしたことが、きっかけである。
そして読んで初めてこれもまた、実験的な作品だったのだ、と気づかされたのだった。

書き手を生みの親とするなら、作品はその子供だろう。
だが同時に子供は親と異なる一個人でしかない。
所有権は親にあるやもしれないが、
しかし子供は子供自身のもの、作品は作品でしかない時、産み出した親の存在とは。

ゴーストライターが主人公である本作の、主人公と主人公へ依頼した偽著者の待遇、立場の入れ違う様は、
N.riverが感じていた、意図して書いたものとは異なる読みで、嬉々と感想を綴る読者とのずれと、
作品が自分のもののようでありながら違うという感覚においては、似ていると感じている。

最後、自分の書いた物語を他者のもののように愛読する主人公に、
いったん生み出されれば作品はすなわち、
誰のものでもないという不思議と、そんな現実を突きつけられたような気がしていた。

「存在しない小説」では、読まれるまで作品は出現せず、
「親愛なるもの」では小説は三権分立、読み手と書き手との間に存在する空間となり、
ここでは、誰の手からも浮いて自律したものと描かれているのではないか、そう振り返るのである。

しかし実験小説、訳された文体は原文に近づけられているとはいえ、読みにくかった!
そういうわけでN.riverには「正しい作品解釈」という概念が薄いことも付け足しておきたい。
どんな論説だろうとも、破綻していなければオーライなのである。