PHOT byアトリエ夏夢色
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水面の曲線は、あらがうことを忘れた穏やかさだ。 眺めていたら、映った白い雲が開いた穴のようにぼくを誘った。 出かけることは別段、なれない準備の連続でもない。 去年の夏、汗と労力をつぎこんで作り上げたボトルシップをひとつ。それから、ここぞに役立つに違いない雨傘。着替えはお気に入りだけで十分だ。そして寂しさを感じたなら紛らわせるための彼女の写真。寂しさなら、腹も紛らわせるためのビスケット。飲み物は冷蔵庫に残っているソーダ水が丁度いいだろう。 それから・・・。 膨れ上がった麻のリュックを見下ろして、ぼくはしばらく考え込んだ。 いいや、きっと必要なのはこれだと、絞ったリュックの口へ、最後に釣竿を刺し込む。 玄関を飛び出す直前、ドロップを口に含んだ。残りを缶ごと戻しかけて、無理やりポケットに捻じ込む。 自然と漏れる鼻歌は、水面の曲線とそっくりだ。 抗うことを忘れた穏やかなメロディー。 どちらに連れられ、どちらに導かれて、ぼくの足は自然と水辺へ向かう。やがてキラキラ光るそこに、靴先を浸した。 温度だって悪くない。 匂いだって最高だ。 振り返る。 写真は持ってきたけれど、彼女にさよならを言っていなかったことを思い出して、眉をひそめた。田舎の両親もだ。けれどどちらもしばらく会っていなかったなら、たいして重大なミスじゃないと頷く。 少し日の傾いた水面には、白かった穴がオレンジ色で張り付いていた。その色は、閉じられるまでのタイムリミットを告げている。 急げ。 慣れているからと、準備に気をかけなかったからもしれない。時間は思ったより過ぎ去って、ぼくは少し慌てた。けれど慎重にならなければならないのは、ここからだ。 ぼくはリュックからボトルシップを取り出す。 コルクの栓を抜いて、中の船が傾かないようにそっと水面に浸した。まるで乾ききっていたかのように、あけられたボトルの口から水は吸い込まれて、ふわり、船が浮かび上がる。小さな船には、幾ら穏やかでもそれだけで大波なのだろう。くすぐったそうにも見える動きで揺れて、出航の足踏みを踏んだ。 見極め、ぼくはボトルをそっと後ろへ引く。 足踏みしていた船が、その場に止まるだけで前進しているかのような錯覚を覚えた。 そうしてするり、ボトルの口から抜け出す。 抜け出した船の帆に、赤く焼けた日の光がさした。 とたん風を受けたように、帆はバンと張る。 ぼくが縮んだ。 いや、船が大きくなったのかも。 水面は穏やかなまま。 そこに旅の足は堂々、浮かび上がってぼくを待つ。 ボトルの中の水を捨てて、ぼくはポケットに無理やり捻じ込んだ缶からドロップを移しかえた。ほら、こうする方が中が見えて、いい。何かの役に立つかもしれない缶をリュックへ戻し、担ぎ上げて、船に乗り移る。 おっといけない。 空の端はもう、青みがかって夜のマントをなびかせている。 水面に開いていた穴も、下へ流され先ほどの場所とは違うところにあった。 さようなら。 心の中で呟く。 ぼくは用意されていたカイで、岸を押し出した。応えるように進む船が、水面に開く穴めがけて走り出す。 と、どこでどう聞きつけてきたのか、離れる岸に彼女の駆ける姿があった。大きく振られた手には、夜のマント。ぼくへ向かって何かを叫ぶ声は聞こえないけれど、その口がはっきり動くさまを見る。 ぼくは見送りに、ありがとうと叫んで返して、彼女が夜に飲み込まれるのを見届けた。 その目で、帆を見上げる。 幾分、薄くなったけれど、オレンジの光を受けた帆は、まだまだ元気だ。その証拠に、舳先は真っ直ぐ穴へと向かっていた。もう岸は遠く離れ、夜のマントの向こう。ぼくはカイを置いて、舳先へ向かう。今や真っ赤な水面を裂いて進むその行く手には、ずいぶん小さくなった雲の穴が見えた。 ぼんやりしたその輪郭をなぞって、光は吸い込まれ、水面は歪み、そして空気が吸い込まれて流れる。 いよいよだ。 見上げた帆は万全。 いまなら、受けた光にまだ飛べる。 と、穴へ乗り上げる船体。 流されるままに半分ほども進んだところで、ぐらり、穴の底へめがけて傾いだ。 ぼくは目を見開き、船をしっかり両手で掴む。 落ちるという感覚なんてない。それは吸い込まれ歪み、流れるままに突き進む力だ。 そうして飲み込まれたなら、空がぼくの背後で青く変わった。 間一髪。 夜だ。 マントにとざされた穴が、みるみる小さくなってゆく。閉じれば回りは、先ほどと変わらない水面となった。時間だってほとんど同じだ。ただ、少しばかり先を行っているのかもしれない。 彼女はあの後、真っ直ぐ家へ戻れただろうかと、心配してみる。 電話がかかってきやしないかと、胸のポケットをまさぐった。携帯電話は入れっぱなしだ。けれど液晶画面が光る様子はない。 ぼくは安心することにして、マストの中ごろに吊り下げられた、たった一つの明かりをつけた。眠る前に読書もいいけれど、おなかだってすく。ボトルから残りのドロップを取り出して口に含んだ。けれどこれは前菜だ。 ぼくはリュックから釣竿を取り出す。 これが夢だったんだ。 舳先に座り込んで、星の散らばる青い水面へ針を投げ込んだ。 何が釣れるだろう。 小さな小魚かもしれないし、一人じゃ食べきれないほどの大きな獲物かもしれない。ワクワクするのは、部屋で出かける準備をしている時とそっくりだ。 ぼくは待った。 すごく、待った。 そして、待ち続けた。 あれ。 そして目を覚ます。 最初に気づいたのは、釣竿がないことだ。そして次にようやく、待ちくたびれて眠ってしまっていたことに気づいた。船から落ちなかったことだけが、不思議なほどの幸運だ。何しろ、それほどまでに船は揺れていた。 夜は明けているのだと思う。 けれどもそれすらわからないほどに、空には黒い雲が覆いかぶさり、強い風が吹いていた。 帆が、千切れそうに張り詰めている。 嵐だ。 ぼくは慌てて船の中ほどに戻った。 おなかがすいて、グーと鳴ったけれど、それどころではない。慌ててリュックを開く。こんな時のためにと、傘を持って来たのだ。見つけて白いそれを抜き出した。マストを背に、開く。待ち受けていたかのような、大粒の雨。 船がうねる水面に合わせて、斜めに傾いだ。 ぼくは転ばないように、傘を片手に座り込む。 雨はますます激しさを増すと、船を、ぼくを、この水面をこれでもかと叩き続けた。慌てたりしたら思うツボだ。堪えてぼくは、ここぞとばかりリュックからソーダ水を出した。傘をさしているのだけれど、雨にびしょぬれになりながら、すきっ腹に流し込む。湿気てつまんだ指先から溶けてゆきそうなビスケットを舐めた。 その味に、なんだか急に侘しくなって、泣きそうになる。 実際、泣いていたかもしれないけれど、雨が酷くてそれはぼくにもわからなかった。 酷いもので、それでも雨は止まなかった。 風はますます強くなる。 ぼくはぼくを押さえつけることだけで精一杯になった。 飛ばされたリュックが倒れて口を開く。 中からごろごろ、ドロップを収めたボトルが転がりだした。四角い缶ならこんなことにはならなかったハズだ。ぼくは最後の食料に慌てて手をのばすけれど、間に合わない。傘だって掴んでいなければならないからだ。 やがてうねった船の縁から、ボトルは跳ねて水面へ飛び込んでいった。 散々だ。 と、思った瞬間、頭上で鈍い音がする。 見上げたそこで、傘が破れて裏返った。 そのむこう見えた帆も、また弾け飛ぶように白い布を翻している。 その勢いに連れられてきたような大波が、唐突に船の中へと打ち上がってきた。 役に立たなくなった傘を投げ捨てて、ぼくはただリュックにしがみつく。 波に押し流された体が、ドンと縁にぶつかった。 ぼくはずぶ濡れのままもう一度、深い眠りにつく。 今度こそ、目が覚めた時の天気はよかった。 そんなに悪い事は続かないものだと、思う。 流されてぶつけた体は少し痛かったけれど、天気がよければそれだけで最高だった。 水面はいつもの穏やかさを取り戻して、白い雲を映し出し、ぼくから忘れたような鼻歌を少しずつ引き出し始める。 きっと嵐がぼくに、ごめんなさいと言っていたのだろう。 甲板には、打ち上げた大波と一緒に飛び込んできた魚が二匹、残されていた。おなかがすいていたぼくは早速それを料理して食べた。 けれど問題は、それからだった。 帆を修理しなければならない。 そんなこと、初めてのぼくは不安だったけれど、ぼくはマストに登って、すっかり破れてぶら下がったそれをどうにかくくり直した。素人仕事のせいで、ずいぶん小さくなってしまったけれど、どうにか形は整ったろうと思う。 けれど、そんな不恰好な帆だからか、嫌って風は吹いてくれなかった。 帆をまんぱんに張らせる、あの光はささなかった。 ぼくは途方に暮れた。 どうにか奮い立たせようと、リュックを開いて彼女の写真を探す。けれど、あの嵐に流されてしまったのか、写真を見つけることはできなかった。 ずいぶんとしぼんだリュックを前に、ぼくもまた酷くしぼんでうずくまる。 穏やかだけれど、水面は何も助けてくれない。 と、ぼくは不意にあることを思い出して、立ち上がっていた。 そうだ。 確か造ったハズだった。 甲板の後方。 そこに跳ね板はある。 駆け寄って、ぼくは踵を踏み込んだ。 浮き上がる板。 引き剥がすように、めくり上げる。 そこには、小さな金庫。 ぼくにその解錠番号は、お見通しだ。 右へ五つ、左へ七つ、行ったところで十戻る。 分厚い扉が嵐を耐えて浮き上がった。 開けば、二つ折りのサイフ。 ぼくは肩まで船底へ手を突っ込んで、それを掴み上げる。 中を確かめた。 日はまだ高い。 そして嵐はいつ来るか、わからない。 ぼくは血眼になって右へ左へ、頭を振る。 岸は見当たらなかった。 けれどこう、考える。 そうだ、風だ。 風を買いに行こう。 そして夜のマントをたたんで彼女は、ふと、岸に流れ着いた一本のボトルに足を止めていた。 心地よさげに浮かんだその中には、七色のドロップ。 拾い上げて、マントで水気を拭う。 コルクの栓を抜いた。 逆さにすれば、ボトルの底からたった一粒だけ、ドロップが転がり落ちてくる。 口に含んだ。 甘い味が、喉を転がす。 漏れる鼻歌。 その調は水面の穏やかさだ。 その穏やかな調べは、彼女の足を、おそらくこれまでになく確かに家へと運んでゆく。 底でひとつに解け合った、ドロップのボトルを片手に。
fin
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