つかわしめ の巻
27


 猪の足取りは、とにかく軽い。
 突き出た石に張る根をかわし、右へ左へ山道を走る。
 果てに雲太らをあざ笑うかのごとく山道を逸れたなら、登りの山肌に茂る笹の茂みの中へぴょん、と飛び込んでみせた。
 逃すものかと雲太もえいや、で飛び込み山肌へ食らいつく。続き落とした腰で京三も紛れ込み、和二も肩をいからせ頭からざざ、と突っ込んだ。
 猪の体は茂みに埋もれ、背中の毛がのぞくほどだ。その周りで押し倒された笹だけが、猪の行方を示し揺れた。目指して三人は、笹の葉をかき分け追う。落ち葉に足を取られては滑り、張り巡らされた根に躓いては立ち上がった。そのころ頭に過っていたのは、イナゴの包どころか猪肉にありつけるのでは、という思いだ。思いがなんのこれしき、と誰もの足へ力をこめさせる。
 うちにも猪が、笹の茂みから抜け出した。うっそうと生える木立を前に立ち止まり、息を整え、かぶった笹の葉を背から払う。そのとき細くすぼまった鼻はぶるる、と鳴って、雲太らをうかがいわずか、振り返ってみせた。
 くわえた包がチラリ、のぞく。
 その下で前足が、駆け出す気配をうかがわせ、また山肌を引っかいた。
 などと今度、走り出したなら、もう追いつくことはできないだろう。雲太の顔も、む、とくもる。だからして雲太は茂みの中で立ち止まった。積もった足元の落ち葉をかき分ける。のぞいた黒い土の中から石をほじくり出すが早いか、猪めがけて力いっぱい投げつけた。
 びゅん、と飛んだ石の大きさは雲太の拳ほどだ。
 石も大きければ猪も大きく、石は見事、走り出そうとしていた猪の後ろ足に当たった。そうして払われた猪の足は、面白いほどつるん、と斜面で滑ってみせる。猪はすっころび、よほど驚いたらしい。すぐに立ち上がれず釣り上げられた魚のように、丸々と太った腹をむき出しにして跳ねた。拍子に口から包は投げ出され、奥から泡は吹き上がる。振り巻き猪はようやっと、起き上がっていた。
 うちにも雲太が詰めた距離はもう、猪に手が届きそうなほどだ。
 狙い定めて雲太は斜面を蹴りつける。
 広げた両手で声を張り、目を剥き猪へ躍りかかった。
 固く張った尻へ食らいつけば、逃してなるものか、とたぐった腹へ腕を巻き付ける。四肢は嫌って甲高く鳴き、やおら後ろ足を、力一杯、跳ね上げた。吹いた泡を飛び散らせ、雲太を払って死にもの狂いと身をよじる。挙句、引きずり、山肌を登りだした。
 押し止め、そこへだぁっ、と飛びかかったのは和二だ。背へまたがると首根っこへ食らいつき、毛も掴み、耳も掴んで、渾身の力で揺さぶり裏返しにかかる。ならさすがの猪も仰天したらしい。ブヒヒと鳴いてアゴを浮き上がらせた。のけぞり地から前足は離れると、そこへとどめと京三は加わる。重みに猪は、ついに体をひっくり返した。
 つんざくような鳴き声が山に響き渡る。
 落ち葉がぱあっと舞い上がり、投げ出されて和二はそこに混じった。もんどりうって雲太もだぁっ、と声を上げたなら、京三もろともひっくり返った猪の下敷きになる。
 もつれて笹の茂みまでザザザ、と滑り落ちた。
 どうにか止まった時にはもう、誰もが自分のことで精いっぱいとなる。おかげで手は猪を離していたらしい。うめく雲太らなど知らぬ存ぜぬ、猪は何事もなかったようにその腹の上でぴょん、と起き上がると、雲太らを踏みつけとっとと山の奥へ逃げ帰っていった。
「いた、たたたたっ」
 落ち穂まみれて取り残され、上げた声は情けなくも三人が三人共まるきり同じだ。
「クソ、逃したか」
 頭を振って雲太は吐き、その傍らで京三も声を絞り出す。
「三人かかったところで、相手は猪。やはり素手でとらえるなど、無理だったのですよ」
 見上げれば落ち葉には、滑ってえぐれた痕がくっきり残されていた。ことと次第を見せつけられたようで京三は、ついた手でどうにか立ち上がる。一歩、二歩と、歩み寄っていった。落ち葉の中から、投げ出されていたそれを拾い上げる。
「でも、このとおり。イナゴはちゃんと取り戻せましたから」
 いつもとおりと、雲太と和二へ微笑みかけた。だが見合う返事こそ、返ってこない。ただ和二だけが、猪の毛にまみれてこぼす。
「けど、よけい腹がすいたぞ……。こんなことなら、建御雷にお願いして、取り返してもらった方がよかったぞ……」
 そばからくうう、とまた腹を鳴らした。侘しい音はおっつけ雲太と京三からも聞こえ、しばし誰もが黙り込む。
 と、かぶりを振ったのは京三だ。
「いえいえいえいえいえっ! そんなことはなりません。たかが猪からイナゴを取り戻すだけのこと。それごときに御柱をおよびたてするなど、身の程知らずっ! 神はそのような身勝手こそ、許しません。だからして祈請も三人の意が揃わねば行えぬよう、このように社と鈴に分けられているではありませんか」
 証の剣を腰から抜き取ってみせる。いや、抜き取るべく腰元へ手をあてがっていた。だが掴めずして京三は視線を落とす。声はそのとき「あ」ともれていた。
 なぜなら剣がない。
 そう、休みを取るさい腰から下ろしたきりだ。
 ならその後、どうしたのか。
 思い出してゆく京三の顔が、なおさら白く色を失ってゆく。
 否や、踵を返した。
「どうした?」
 京三は、うがる雲太を飛び越える。矢となり山肌を駆け降りていった。山道へ躍り出たなら、危うくさらに下へ転がり落ちそうになって踏みとどまり、来たばかりの道を駆け戻る。
 山道では確かにいまだ誰ともすれ違っていない。しかし山賊がいることに間違いはなく、剣には目にも眩い銀細工が施されていた。もし持ち去られてしまったら。思えば思うほどひと時たりともわずらわしく、すきっ腹も忘れて走る。
 おかげで、あと戻りし過ぎていた。立ち止まり、いやそんなはずはない、と京三は辺りを見回す。だが見覚えのある道の凹凸は、休んだ場所をずいぶん過ぎており、しかしながら見逃すはずのないあの絶景をやり過ごした覚えこそなかった。
 戸惑うままに来た道を引き返す。和二がオノコロ島を見つけて駆け出した場所へ、間違いなく辿り着いていた。
 とたん、その目を疑う。
 なぜなら見過ごし走ったとおり、道の片側はすっかり木々に塞がれていた。信じられず反対側へ視線を投げれば、ここで間違いないと言い含めて地面にくっきりケンカの跡が残されているのを見つける。だが剣だけが見当たらない。
 うろたえ京三は駆け寄った。ケンカの拍子に誰かが蹴り飛ばしてしまったのかと、落ち葉の間を、短い草の間に間を分けて探した。最中、雲太と和二は駆け戻って来ており、塞がれてしまった風景にたちまち驚く。京三へどうなっているのか、と問いかけた。だがそれどころではない。京三は、草をかき分けていた手を止める。やがて雲太らへと振り返った。
「……どうやらわたしは、剣を失くしてしまったようです」


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