くしみたま の巻
33


「おとうさぁんっ!」
 澄んだ声が心地よく伸びていた。それは振り返りざま父を呼び寄せるものだとして、そこによこしまな企みこそ感じられない。だからして応じる別の気配もけげんと動転の両方を漂わせると、おっかなびっくり駆け寄ってくるあんばいだった。
「ほら見て。人が倒れてる」
 向けられた言葉を雲太は聞く。
「おお、ほんに。人じゃ。しかし村の者ではないな。初めて見る顔じゃ」
「どっちだっていいわ。こんなところに倒れているんですもの、山を越えて来たに違いないわ。すごい」
「おお、おお、子供もおるな」
 言いながらじわり、じわりと声は二つ、近寄って来る。そうして最後、尻を突かれたかのように跳ね上がった。
「こらいかん、行き倒れかっ?」
 だからしてわけを話そうと雲太は思った。だが言われたとおり腹がすきすぎて倒れていたなら、体こそ思うように動かない。
「そうよ、浜にいる龍のせいで、何も食べていないんだわ」
 いや、腹をすかせているのは炊いて食うナベを失くし、イナゴの包さえ失ってしまったからだったが、これも言ってきかせることはできそうもなかった。そうこうするうちにも声はさらに近づいて、雲太のすぐそばからかけられる。
「もし? もし、もし?」
 雲太はどうにか、うーんと唸って返した。なら声は続けてこうも言う。
「もし、山を越えていらした旅のお方とお見受けします。今、何か腹の足しになるものをお持ちいたしますから、どうかそれまで気をしっかり」
 やおら気配はすくっ、と立ち上がった。あの澄んだ声は、雲太のずっと上で凛と響く。
「おとうさん、あたし水を汲んできて穀の用意をするから、急いで窯の準備をお願いっ!」
「ようし、わかった。火を起こそう」
「背中の、ナベを……」
 その時、ようやく雲太から声は出る。聞きつけて衣擦れの音が、また雲太へ近づいてきた。
「おナベ?」
 問いかけたかと思うと確かめて雲太の体を探り、教えて言う。
「ナベはどこにもないようよ。あ、でも穀はある」
 触れた背の荷に、小さくこぼした。続く言葉はまた雲太へ向けなおされる。
「ナベを失くして食えなかったのですね?」
 雲太は閉じた目へ力を入れ、精一杯に頷き返した。見て取った声に迷いはない。
「なら、この穀を戴きます」
 断りを入れ、荷の合わせから穀の入った包みを抜き取った。抱えて足音は遠ざかってゆく。雲太はただなされるがままと、その足音を聞いていた。


 それは鳩を祓ってから二晩だ。雲太らはひたすら水だけで腹を膨らませると、山道を辿っていた。途中、降りた川で魚へ掴みかかり、目についた実をもいで口へも入れたりしたが、魚は弱った体をあざ笑って逃げ、木の実はどれも食えぬほど渋いものばかりときていた。
 もう足が前へ出そうになくなった時、三人して鈴を鳴らして手を打つかとも相談したが、その頃にはずっと下り道が続いていたため、あともう少し頑張ってみましょうと京三が応じていない。だからして山を抜け出し、次に越えねばならぬ山の前、広がる小さな村を目にした時は、誰もが心の底からほっとしていた。おかげで助かった、と思ったとたん、へなへなと腰は砕けて抜け落ちてしまう。こうして山のふもとで倒れ込むことになってしまったのだった。


 ぐったりする頭元で足音が何度も、行き来する。
 やがて火を吹く音が聞こえ、燃え始めた薪の臭いが漂った。
 何かを刻むとんとん、という小気味よい音がし、ついに雲太の鼻先を、ぼんやりしておれぬほどに良い匂いがかすめてゆく。
 粥だ。
 思ったとたん、まぶたは持ち上がっていた。それは和二と京三も同じらしい。恥ずかしげもなく三人共が、モソモソ起き上がりはじめる。
 前で、炊き上がったナベのフタは取られていた。湯気がもわり、と吹き上がり、グツグツいう穀の音がまたはっきり聞こえだす。なおのこと格別な香りは三人の元へ運ばれてくると、いてもたってもおれぬ心持ちにさせた。
 かきまぜ、すくい上げる様が幻のようでならない。そうして椀へ注がれてゆく琥珀色の粥を、雲太はどこかぼんやりとした気持ちで眺めた。
「さあ、たんと召し上がって、精をつけてください」
 涼やかな声が誘う。
 なら湧いて出る唾が、もう口からあふれ出そうだった。
 ごくりと雲太はそれを飲みこむ。吸い寄せられるまま、夢中で声へ、椀へ、這いずり向かった。迎えて椀は差し出され、雲太は両手でしかと譲り受ける。中には炊かれた穀の粒のほかに、柔らかそうに煮えて透けた大根と、刻まれたその葉が青々、浮いていた。味噌も溶かれているらしい。見下ろした雲太の前で、ゆったり心地よさげに渦を巻いている。
「おお……」
 口をつける前、またもや雲太はごくり、唾をのみ込んだ。熱いのでどうぞお気をつけて、と声は言っていたが我慢がならない。次の瞬間にも一気に椀を傾けていた。おっつけ熱さにほうほう息を吹き、犬のようだった体を起こしてごくり、飲みこむ。久方ぶりの食い物はことのほか熱く腹へ落ち、受け止めた腹が、とたんねじれるほどに笑い出した。ただそれだけで血と気は巡り始めると、次はまだかと雲太を急かし、せがまれるまま雲太は次々と粥を腹へ落とし込む。
 美味かった。
 一粒、一滴が、体の隅々まで行き渡るようでもあった。
 同じように椀をすする和二の、あちちと苦悶する声が聞こえ、いつもなら美味しい、の一言を欠かさぬ京三もまた、何も言わずにズズズとすする音ばかりを響かせる。そんな三人へ箸が手渡されたなら、かきこむ勢いは増した。椀はすぐにも底が見え、雲太も和二も京三も、おかわりを求めて同時に椀を突き返す。


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