赤い川 の巻
43


 ふぅ、とひと息、高天原で、天照は掲げていた手を下ろしてゆく。
 それはおりしも烏がほのめかしていたつかわしめの正体を素戔嗚から聞き、芦原の野へ目をやった時であった。野で繰り広げられていた木偶らの相撲にはハラハラのし通しで、もうこれが目を離すスキすきすらない名勝負。おかげで時を忘れて拳を握ると、振り上げては叩きつけ、舌打ってはノーッとのけぞり、しばし天照は取り組みに心奪われていたのだった。
 直後、柏手と鈴の ()に乗り飛び込んできたのは、木偶らからの祈請だ。なんの祓いかと目を通せば、そこに添えられていたのは「早く働き手たちが帰って来るように」という文言だった。
 さて、と天照は考える。そもそもそのようなもののために鳥居を授けたのではなく、相撲は山へ鎮まる国津神へ納められたものだからして、応えてやるのはちとお門違いのようにも思えてならない。だが木偶らの行いは全て天照へつかえてのことであり、そんな木偶らの取り組みにひどく魅せられたところなら、うん、まぁ、ここは褒美かわりに叶えてやってもよいか、と宙を睨んで口をすぼめた。
 よし、と決めて目を戻す。
 そこから先は、とんとん拍子だった。
 蹴散らし、天照はさらに足元の雲を広げる。のぞいた隙間から野を見おろし、気合もろともくわ、と両目を見開いた。とたん眼差しは眩いばかりと野を照らし出し、ぐるり見回して天照は村が背にした山の向こうのそのまた向こう、落ちる影を探してまわる。目に止まればここ、そこ、あそこ、と次々に指差し、その指先で働き手らを宙へ釣り上げていった。中には厠で用を足している者ものいたが、元よりミラクルに待ったなどない。気を抜けば落ちてしまうのだから、眉を逆立て、息をつめ、ことごとく木偶らのいる山の小道にまで運び込んでいった。
 見つけた村の者が土俵の周りからわらわら走り出してゆく様は、まったくもって健気といえよう。再会を喜ぶ声はそこここから上がり、安堵する声が、奇し魂と喜び崇め奉る声が、芦原の野に響きわたった。
 まあ、そうまでもてはやされたなら、神とて心地のよいものだ。善い行いに天照は、鼻も高々、身を反り返らせてゆく。
「建御雷であれば働き手どもの数だけ雷を落とすでしょう荒業。素戔嗚であれば嵐で吹き飛ばして運んで来るやもしれぬ大惨事。獅子には、ちと多すぎる数かと。比べてあまねく野を照らすこの天照にはうってつけの業でした。あは、おほ、なんのこれしき。おほ、あは、容易い、容易い」
 止まらずおほほほ、と、ついにはがはは、と笑いに笑う。
 おりから声は、背よりかけられていた。
「さすが 高天原御柱(タカマガハラオンチュウ)、天照様。慈悲あふれる思し召し、もったいのうございます」
 天照の笑い声は、とたん首を絞められたかのごとく止まる。動きもそれきり固まると、けっこう器用な動きだ。ぎょっとして声の方へと振り返った。
「な、なんの、八咫の烏でしたか」
 どうも毎度、空から現れるため足音というものがしないのだから困りものだ。いつも忍ぶように降り立つ烏は、こたびもそこで黒を光らせていた。
「は、至急お呼びたてとのこと。八咫、只今、野より戻ってまいりました」
 なら天照も、いつまでもブリッジしたような格好ではおれない。
「確かに呼び立てたのはこの天照。待っておりましたよ」
 きゅるり、身をひるがえし、こほん、喉を慣らして烏と向かい合った。が、それもそうは続かない。
「ですが八咫っ! そのニオイは何です。焦げ臭いったらないではないですかっ!」
 たちまち顔色をくもらせ口を覆う。
「へ?」
 様子に頭を垂れていた烏は素っ頓狂と顔を上げ、心当たりを思い出したか眉間で羽を逆立てる。
「ま、まさかっ?」
 広げた翼へ頭を突っ込むと、急ぎくんくん匂って確かめた。
「ついさきほど例の鳩と一戦、交えまして」
 そう、山で剣を奪われそうになった時に鳩へまといついていた烏こそ、この八咫烏だったのだ。受けた命に従い木偶らの行く先を見守っていたところ、剣を奪おうとした鳩とばったり出くわしてしたのである。
「どうりで(ケガ)れが。うぉぇ、くしゃい」
「そ、そのつもりで念入りに (ミソ)いできたのでありますが。においますか。はて、いやはや、なんと……」
 えづかれてしまえば、裏返し面返し翼を確かめる烏も懸命だ。なら後じさり切ったそこから天照は唸って返した。
「ええい。もうよい。今、時間がありません。ともかく、例のつかわしめの正体、祓った素戔嗚から聞きうけました」
 やおら烏の動きはピタリ、止まる。
「あろうことか、この野に和魂となって鎮まり、大国主の後ろ盾となるようわたしのやった神のつかわしめ、であったとか」
 舞い上がっていた天照の声は低くなっていた。
「……まさか」
 聞かされ烏は、突っ込んでいた顔を天照へ向けなおす。見つめて天照は覆っていた口元から手を離した。間違いなし、と烏へ深くうなずき返す。
「崇められず、鎮まる場所を見失ったせいです。それきり荒魂となった様子。八咫の察したとおりでした」
 そんな天照の顔にはいつからか、似合わぬ影が落ちていた。
「八百万の神をまとめ、国造りを推し進めるほどの神が真逆と荒ぶれば、それは国造りが滞るどころか野を元の泥へ変えかねぬほどの荒魂」
 確かに事態はクサイだなどと言っておれる場合になく、烏の目へ自ず力はこもる。
「野の乱れがこうまでも天津神の手にあまり、高天原すら混乱させようとしておるのも、おそらく私の遣わした神が荒魂として八百万、国津神を束ねようとしているため。よきをはからい遣わしたはずが、とんでもないことに……」
 前でついに天照はうなだれ、様子は翼をたたむ烏の動きさえぎこちなくさせていた。
 はずが、とたんがば、と天照は顔を持ち上げる。
「ということを、なぜ、お前が初耳なのですか?」
 突きつけるものだから、たたみ損ねた翼もばたついていた。
「たっ、は、いえっ、そのっ、も、燃えて果てるか否かの瀬戸際でありましてっ!」
「木偶らのことを任せておるのに、肝心要を素戔嗚から聞かされるとは」
「はぁ、面目次第にございません」
 などと烏がしょげるのもこれで二度目か。
「とはいうものの」
 おほん、と喉を鳴らす天照はやはり慈悲深い。
「失くしたからといって、あれはまた与えていいような鈴にありません。八咫の奮闘があったからこそ剣は守られたようなもの。よう木偶らを助けてくれました。木偶らに代わってこの天照が礼を言いますよ」
 あいだ、そこ、ここで、ジャンジャン鳴らされてはうるそうてかなわん、と言う声も聞こえたような気はしたが、烏は深く頭を下げていった。
「その大役を中断してまで、こちらへ戻るよう申し付けたことはほかでもありません」
 見つめ、天照は話を切り上げる。
「されば木偶らでは間に合わぬやも知れぬ相手」
 新たな成り行きが伏せた面の中でピクリ、烏の眉間をうごめかせた。
「ゆえに八咫はこれより木偶らから離れ、同様に野に隠れた荒魂を一刻も早く見つけ出すよう、尽くしてもらいたいと考えております」
 それが予想外の指示だったとしても、もちろん烏に異存はない。
「見つかれば報告を。ただちに木偶らを向かわせましょう。事と次第によっては……」
 天照はそこで言葉を切る。
 烏は伏せていた顔を持ち上げていった。
 そこでどこか遠くを眺める天照は、それでいて烏にもピンとくる考えをあらわとしている。なら次の瞬間にも過った風景と違うことのない言葉を天照はこぼしてみせた。
「天照はじめ天津神らで野に降り立ち、荒魂を鎮めねばならぬことになるでしょう」
 これでも案外、高天原は縦社会なのだ。そこを御柱、自ら陣を率いて天下るなど、前代未聞の緊急事態、空前絶後の非常事態にほかならなかった。つまりそうまでせねばならぬ時、芦原の野はすでに野にあらず。泥へ還る一つ手前と、烏は心得る。そして烏も見たことのないその光景に、身震いを覚えた。思わず目が、足元の野へ落ちる。
 スラム化しているとはいえ明々と照らし出された野はそこで、目の下にクマさえ作って奮闘する天津神らの魂により、まだ野と形を整えていた。この姿が混沌とした泥へ還るやもしれぬと思えば、暮らす民の行く末もまた不憫で仕方ない。
 知らず村の者は、いまだ再会を喜び合っていた。様子はなおのこと烏の胸を打ち、なんとしても押し止めねばなるまい、思い定めて嘴へ力を込める。 
御意(ギョイ)。木偶らは野の者にも助けられておる様子。八咫はこれより離れて巡り、必ず荒魂の鎮まる場所を突き止めてごらんにいれます」
 告げて両の翼を大きく広げた。打ち付けたなら黒がミステリアスな体はぶわ、と宙へ舞い上が「だから、くしゃいというにっ!」
 声は高天原に響き渡り、烏の体は速度を増した。野へ、青い星へ、まっさかさまと落ちてゆく。  

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