赤い川 の巻
44


 そんな天照も眠りにつく夜半。
 雲太はふんふん、鼻を鳴らす。
 足はむしろ鼻の後を追いかけて山道をたどり、目は左右を見回していた。
 頬へ影を落として雲太はニヤリ、笑う。
 またもやふんふん、鼻を鳴らして、迷うことなく足を進めていった。
 浜の村から越えて来た時に比べると、山はずいぶと緩やかで涼しい道が続いている。食うものがなかったあの時と違い、タカの村で穀に菜に少しばかりの干物さえ譲り受けてきたのだから、飢えることのない足取りは軽く、祠づくりに留まった村での幾日かを取り戻して旅路はとどこおることなく出雲へ進んでいた。
 ただこの山は奥が深かい。
 登って下るにとどまらず、ひたすら平らな道が続くこともまれではなかった。それは時折、木に登り、日や星の向きで方角を確かめねばらぬほどで、この夕も、雲太は入る日と星を探すため木立へよじ登っている。
 しこうして見つけたものが何であったかと問えば、これがなんという偶然か、いやそれこそ真剣勝負と相撲に取り組み、休まず山を越えた雲太への褒美か、ウロになみなみとたまったサル酒であった。
 どれほどそこで味見してやろうか。雲太が思ったことは否めない。だが木立の下には見えますか、と問う京三がおり、しばらくも行けば誰もが寝入る夜が待っていた。雲太はこのことを下の二人へは知らせず、入り日だけを確かめてひとまず木立を降りる。そうして辺りが闇に包まれるまでをしたたかと待ち、こうして火の傍らから抜け出してきたのであった。
 木立は道行くかたわら登ったものだからして、覚えのある枝ぶりはやがてすぐにも見つかる。月明かりに見上げて雲太は、またもやニンマリ、頬を潰した。
 ままにぽいぽい、履物を脱ぎ捨てる。
 両手へ唾を吹きかけ、むしろそれが酒であるかのようにえい、と幹へしがみついた。どうにも緩む頬のせいでズルリ、滑り落ちかけたなら気を入れなおし、腹をすりつけよじ登る。目指すは雲太の背丈の倍ほどの場所だ。木立の幹が二股と別れたところにぽっかりウロは口を開くと、そこになみなみサル酒は溜まっていた。
 思い浮かべて登れば登るほど、葉の茂りは薄くなり、月が雲太の行く手を明るく照らし出す。助けられて雲太は節へ手をかけ足をかけ、酒飲みたさに、二股に分かれたウロの場所へ手を伸ばした。ガサガサと葉を揺らして体を持ち上げ、そこに空から落ちて浮かぶ月を見る。いやそれこそが二股に分かれた枝の間、浮かべて波打つサル酒であった。甘い香りはすぐにも雲太の鼻孔をくすぐり、。間違いなしと雲太は目を見開く。
「おおッ、これだこれだ」
 なにはともあれ懐に忍ばせてきた椀を、抜き出した。映る月は避けるにこしたことはないだろう。雲太は、たまるサル酒の上澄みを少しばかりすくい上げる。引き寄せ見下ろし、そうっと口まで運んでいった。とたん眉は跳ね上がる。何しろ驚くほど甘い。味わいはまるで果実がごとし酒であった。それでいて後からじんわり胃の腑へ熱は広がると、ほかほか体を温め始める。まったくもって初めて口にする類であったが、それでいてたまらなく美味いと思えてならない酒であった。
 これはもう、木立にしがみついている場合ではない。とりあえず椀を懐へ押し戻し、雲太はもうひと踏ん張りする。左右に分かれる枝の上にまで尻を持ち上げ、枝をまたいでどっかと腰を下ろした。まさに酒とさしで向かい合う。
 その頃には、もう笑いが止まらない。だからして無理矢理、顔を真顔へ戻した。ぐぐっ、とウロへ近づけ、あらため眺めて唸り声を上げる。
「うむ、味見だけのつもりで来たが、これは思いがけず底が深い。竹筒のひとつも持って来るべきであったか」
 だが、戻っているような時間こそなかった。
「仕方あるまい」
 うなずき雲太は渋々、己へ言い聞かせる。
「全て腹に納めて帰るとするかッ」
 だからしてその後は、 呵呵大笑(カカタイショウ)。困った困ったと全く困らぬ顔で繰り返し、再び取り出した椀を高く振り上げる。意気揚々、月ごと酒をすくいあげるのであった。


 寒い。
 不意によぎって京三はまぶたを開ける。そうしていつの間にか火が消えていることに気づき、休んでいた山道の傍らから、やれやれと身を起こしていった。
 暗くなれば獣も、もののけも動き出す。火が消えれば寒いだけではなく、そんな気配も気がかりだ。夕げの粥たきにと拾っておいた薪にはまだ残りがあり、掴んで京三は、かまどの跡へ放り込んだ。落ち穂を寄せ、手探りで荷から取り出した石をカン、カン、打ちつける。ぱっ、と散った火花は、一度で落ち穂へ燃え移っていた。消さぬよう、天照が魂を吹き込んだ時のように優しくそこへ息を吹きかける。
 あおられ火種が見る間に大きくなりっていった。京三の安堵を写してじんわり辺りへ火を移し始める。やがてそこに炎は立ち、すぐ隣、大の字で寝ころぶ和二の姿を照らし出した。ならもうひとつ影はあるはずだ、と京三は目を泳がせる。おや、と眉をひそめてみせた。雲太の姿がないことに、(カワヤ)かと辺りへ首を伸ばす。
 その時だ。まさに恐れていた獣の鳴き声はうぉう、うぉう、聞こえてきた。そのおぞましい響きに、寝ぼけていた京三の体も覚める。手が咄嗟に腰の剣へ伸びていた。握りしめて屈みこんだまま、辺りへくまなく視線を巡らせてゆく。が薪の火は小さく、山に闇はことのほか深かった。何も見つけ出せはず、また声だけがうぉう、うぉうと辺りへ不気味に響きわたる。
 これ穏やかではない。
 京三は、伸ばした手で和二の体を揺さぶった。
「……なん、なのだぁ」
 呑気に目をこすりながら、和二が身を起き上がらせてゆく。向かって京三は、手短に言った。
「獣の、いえ、なにやらもののけの鳴き声がします。そうは遠くない。ですが雲太がおりません」
 おかげで和二の目も覚めた様子だ。素早く鳴き声を追って辺りを見回し、地へへばりつくような格好で京三へすり寄った。感じ取り、京三は立ち上がる。
「火を。雲太を探します」
 うなずいた和二が、薪の中から燃え始めたばかりの薪をつまみ出した。携えて腰を上げ、歩き出した京三の後につく。雲太を探して名を呼びながら、山道をあと戻っていった。
 と、どれほど歩いた辺りか、それまで聞いていたもののけの声を、二人は突如、真上に聞く。
 京三と和二の顔は跳ね上がった。
 そこで木立は折れそうに揺れ動くと、二人の前、山肌の茂みへドサ、と何かは落ちる。
 上げた悲鳴は二人ともが同じ長さであった。すっかり腰を抜かして歯の根を震わせ、何が出て来るのかとどうにか起こした身で、恐る恐る茂みを睨む。だが何ら襲ってくる気配はしなかった。ただ、ぐお、だか、がは、だか、唸った後に、がははと笑い声は上がる。おかしなことにその声に、京三は聞き覚えがあった。
「な、なんですと?……」
 目を瞬かせ、四つん這いで茂みへそろうり、這い寄ってゆく。上ずる声でおいてゆくな、と和二がその背を追いかけたなら、そんな和二のかざす薪を頼りに、二人は茂みへ目を凝らした。
 わけはない。
 探す雲太はそこにいた。
 しかもしたたか酔っている。そんな酒がどこにあるのか。などとどちらでもよい話だ。なにしろ落ち葉にまみれたその姿は、こたびも違わず素っ裸であった。にもかかわらず落ちたことがよほど面白いらしい。今だ山肌でのたうち笑い続けている。
 咆哮の正体見たり。
 むしろ身を潜めているもののけの方が逃げ出すだろう。それはうぉう、うぉうと、また夜の山へ響き渡る。
「このっ、痴れ者がぁっ……」
 睨みつけた京三の眉間が、ぴし、とまた音を立てて割れた。死ぬほど驚かされた後であったなら、言ったそのあとシャーッ、と蛇がごとく息は絞り出される。だがすぐにも元通り。冷めて京三は、つまらなさげと雲太を眺めた。
 なるほど。そんな京三の前でふらり立ち上がった雲太は、今や食らった酒に手足を取られ、やんや、やんや、と踊り出している。様子をふん、と京三は鼻で笑い飛ばした。
「まぁ、ここであれば誰の目にもつきはしないでしょう。好きにしておればよいのです。猪なとやぶ蚊なと雲太なんぞ、とっとと食われてしまえばよいのです」
 見上げる和二の眉がぴくり、動く。
 ならこのさい夜など明けない方がよいのだが、しかしながら月は山を下りていた。今宵も月夜見の眠たげな欠伸から、朝もやはゆるゆると吐き出されてゆく。

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