赤い川 の巻
45


「おぅい……」  しこうして、朝。  雲太はとぼとぼ山道を歩く。先行く和二と京三へ呼びかける声は弱々しく、うつむいていた顔をそうっと、持ち上げていった。  さて、その顔はといえば、これがひどい。知らぬ者が道端で出くわしたなら、叫んで逃げ出してしまうほど、真っ赤と腫れ上がっていた。それもこれも仕方のないことだ。京三の言ったとおり酔いに任せて眠った夜、雲太は顔のみならず体中をことごとく、やぶ蚊に食われていたのである。おかげでかゆいどころか熱すら持つと、鈍くうずいて目覚めた時から雲太をたいそう悩ませてもいた。とぼとぼ歩くのはそのせいで、すっかりばれた酒の一件のみならず、雲太は朝からこうしてうなだれていたのであった。 「おおぅい……。聞こえんのかぁ……」  また二人を呼んで、か細い声を上げる。  なら耐えかねたように、ようやく京三が足を止めた。肩ごし、細いアゴで振り返る。その目でまず何ですか、と問いかけ、なぞって後から口を動かした。 「……何ですか、雲太」  口ぶりには抑揚がない。押されて雲太は、おずおず申し出る。 「川を見つけてだな、なんだその、食われたところをしばらく冷やしたいと思うのだが……」  するとまたもや京三は口より先に目で「ほう」と語る。 「なにをおっしゃられますか。恩を返しての祠づくりとはいえ、先だっての村でわたしたちは幾らか余分に日を過ごしてしまいました。酒を食らい裸踊りなんぞをして食われたやぶ蚊の手当など、しておれるような時間こそございません」  粛々と言ってのけ、あしからず、とすました顔で会釈した。その目がちらり、雲太を盗み見る。たまりかねたか、ぷ、と吹き出した。 「なんだ」  様子に雲太は憮然と聞くが、京三はい「いえ」と返しただけだ。とっとと前へ向きなおってしまう。 「ささ、和二。止まってはなりませんよ。後ろの不細工な赤鬼に頭から食われてしまうやもしれませんからね」  和二を誘うと、聞えよがしに声を弾ませた。なら確かめ振り返った和二が、雲太の顔を見るなりうひゃ、と跳ねる。きししと笑い、たちまち「わー」と叫んで逃げ出していった。たまりかねて雲太は「待たんか」と言うが、やぶ蚊に食われた顔では誰も止まってくれそうにない。気づけば「これこれ」と笑っていさめる京三にさえ、おいてけぼりを食らわされていた。  山道にぽつねんと取り残されて、雲太は呟く。 「ふ、二人して、わしのことをばかにしておるな」  とはいえ、身から出たさびだ。腫れぼったい顔と体で、雲太もまた渋々、山道を辿ってゆくのだった。  そんな山道は起伏が少なく、だからして進んでいるのか迷っているのかが分かりづらい。だが方向はあっていたのだと言わしめて昼過ぎ、三人はついに野原へ出ていた。見渡す限りが真っ平らだ。下草で覆われ青々とどこまでも広がっている。見定めるものを失った目は泳ぎ、ここはどこかと雲太らは頭上へ持ち上げた。そこに遮る枝はない。さえずり小鳥が自由気ままと戯れている。見下ろしゆるゆる雲は流れ、小鳥のさえずりもその行方もが、雲太らを出雲へ誘っていりようだった。  聞き入れ三人は野原へ視線を戻す。  その背からやおら風は吹きつけた。  行く先を示してそのとき草はなびき、辿ったところに銀の帯は横たわる。  川だ。 「おおッ。これはよきところにッ」  見つけた雲太の体は伸び上がった。一目散と駆け出すのだから、京三は呼び止める。 「これ、雲太っ!」  だが止まるはずもない。下草を毟って蹴散らし、突き出る石を飛び越えて、雲太は川べりへ屈み込んだ。早いかざぶん、川へ頭を突っ込む。これ幸いと、やぶ蚊に食われて火照った顔は冷やっこい水がよくしみた。あまりの心地よさに雲太は水の中で息をもらし、ぶぶぶ、と泡を吹き上げる。 「一休みしたなら、すぐにも川は越えますからね」  上からうんざり、京三の声が降っていた。聞こえたからではなく息が続かなくなって雲太はぷはっ、と顔を上げる。吸いなおしてまたどぶん、と突っ込み、わかった、わかった、と振った尻で答えて返した。  様子に京三の口が、む、と曲がるも致し方なしだ。その目に、さげていた竹筒を川へ浸す和二の姿が映ったなら、慌てて「雲太より川上で汲みなさい」と叱りつけ、覚えた疲れにはぁ、と息を吐き出した。  そんな京三が自分の腰からも竹筒をほどくことにしたのは、いくらか前に入っていた水を全て飲み干してしまったせいだ。言ったところで雲太はしばらく動きそうになく、汲んでおくか、と京三もまた和二の傍らへ屈み込む。流れへ竹筒を浸し、するすると飲み口へ吸い込まれてゆく水の様子をぼんやり眺めた。  だからしてそれは最初、見間違えかと思う。  だがはっ、と気づいて京三は息をのんだ。  飲み口へ落ちてゆく水にはいつからか、毒々しい色が混じっている。赤黒いそれは血か。はたまたよからぬ色水か。京三は咄嗟に川面から竹筒を持ち上げた。遅れて「ひゃあ」と和二が声を上げたなら、「捨てなさい」と呼びかけた。  立ち上がって水を捨てながら、川上へと視線を投げる。  信じられず京三は、その目を見張った。  そこに赤きオロチはのたうっている。いや、今や川は 禍々(マガマガ)しくも真っ赤な流れと様子を変えて、草原を割いていた。 「これはいったい……」  と地響きは、そのとき重く京三の背へのしかかる。弾かれ振り返った野原の彼方だ。もうもうと舞い上がる砂埃はあった。引きずっているのは馬の群れか。猛烈な勢いで今まさに、三人の元へ駆けつけようとしていた。

トップへ