赤い川 の巻
52


 マニワの手が、薪を握りなおす。社の前まで雲太と京三をひきい、半歩、一歩と、歩み寄っていった。右左へ分かれて火をかざし、雲太に京三も足を進める。
 と、悲鳴は上がっていた。
 マニワだ。
 雲太の前で転げると、腰を抜かしてどすん、尻もちをつく。
「どうしたッ……」
 驚き雲太はマニワへ駆け寄った。なら闇を睨んでマニワは、あわわ、と歯の根を鳴らし、震える指先を闇の彼方へ突きつける。どうやら何かがひそんいるらしい。なぞり見定め、雲太はぎゅっ、と眉間を詰めた。そうしてあてがっていた手を、マニワの肩から離す。拳と握りしめ、ふんと鼻から息を吐き出した。
「どうしました?」
 背で京三が問うているが、返事は後だ。
 雲太は闇へ足を繰り出す。
 そこへ火を突きつけた。
 なら薪の先でぼう、と火は吠え、雲太の前からそのとき闇は剥ぎ取られる。目玉はそこから、雲太をじいっと見つめて返した。それも一対ではない。マニワが腰を抜かすはずである。おびただしい数が闇から雲太を見つめていた。思わず雲太は小さく呻く。追い払って、咄嗟にかざした火を振った。火の粉は明々と闇に散り、なおさら辺りは広く照らし出される。見つめる目に次いで長い耳が、闇の向こうに浮かび上がっていった。
 兎だ。
 兎の大群は、そこで隙なく雲太を見つめていた。
「雲太、祈請をっ!」
 もののけと京三の声はそこで上がる。だが何かどこかが妙であった。どれほど雲太が火を振り回して暴れようとも、兎は襲いかかるどころか逃げ出そうともしないのだ。瞬きさえしないその目にやがて雲太は、我を取り戻してゆく。
「いや……」
 京三を制し、振っていた火を手元へ引き戻していった。兎の群れへ歩み寄る。やがて動かぬはずだと腑に落ちていた。石だ。しかも生きているのかと見間違えるほど、それは巧みに彫られた石の兎の大群であった。
「い、石?」
 拍子抜けしてマニワもこぼす。
「お社の守り神……、なのですか?」
 握りしめていた剣を顔の前から下ろした京三が、目をぱちくりさせた。
「いいえ、でしたら驚きません。こんなものは前、ありもしませんでしたのに」
 いぶかしげにマニワは答え、そんな京三へ振り返る。なら京三の背にもぼんやり浮かぶ影を見つけ、またもやひゃぁっ、と叫んで手足をばたつかせた。
 気づいた京三の目が流れる。引いた足で身をひるがえす動きは早く、次の瞬間にも火を突きつける。あ、と短く声をもらしていた。
「雲太、こちらにもたくさんっ……」
 カエルやら馬やら阿吽の獅子やら、浮かび上がったのはまたもや石の彫り物だ。などとよくよく目を凝らせば、社へ続く道だけを残して、辺りは彫り物がびっしり詰め置かれている。あまりの数とその見事な仕上がりに、しばし雲太らは目を奪われて立ち尽くした。取り戻させて一陣の風は、そのとき雲太らの間を駆け抜ける。
 誰もがはっ、と顔を上げていた。吹いてきた方向へ目を投げたなら、千切れんばかりに松明は揺れ、赤い布が跳ね上がる。
「お社の中からか?」
 雲太はこぼし、早くも震えてマニワは言った。
「ま、まさか。奥は、お岩の突き当りで、か、風なんぞ……」
「ヤマツとやらがおるせいのでは」
 言って京三が、引いていた足を社へ踏み出す。
 引き止めてそのとき、音は鳴った。
 聞こえてくるのは、足元からで間違いない。
 だからして京三の足は止まり、なぞり視線は落とされていった。
 目にしたとたん、その頬は削げる。
 そこで彫り物は小刻みと、ひとりでに揺れ動いていた。最初は、カタカタと控えめに。やがて足踏みでもしているかのようにガタゴトと、ついには跳ね上がってドンドン、暴れ出す。それはもう、雲太らの周り全ての彫り物で、さすがの雲太もその大きな音に目を泳がせた。
「な、なんだッ」
「い、石ですっ! 雲太、石がすべて暴れ出しておりますっ!」
「かっ、川の神がお怒りだぁっ! 」
 京三は教え、マニワが叫び声を上げる。
 かまうことなく雲太は振った薪の炎をぶおっ、となびかせた。
「京三ッ」
 呼びつける体はもう、社へ向かい丸まっている。
「はいっ!」
 答えて京三も腰を落とした。
 次の瞬間、二人はひと思いと地面を蹴り出す。
「御免ッ」
 断りを入れてぽうん、と社の高い床へ雲太は飛び上がり、間をおかず京三もひらり、蹴上がった。互いは向かい合う格好で布へ背を沿わせると、乱れた息をそこでしばし整える。うなずき合ったのを合図に、掲げた火をかばいつつその身を布の向こうへ滑り込ませた。
 二人は、中で灯されていた明かりが油の火であったことを初めて知る。満たしたカワラケはぽつん、ぽつんと社の床に並べ置かれると、合間にまだ何の形も成していない石を転がしていた。そんな石もまた揺れ動いており、社の中でゴゴゴ、と鈍い音を鳴り響かせている。その奥に、剥き出しとなった岩肌は見えていた。
 濡れておるせいだろう。岩肌は油の灯りに照らされてらてら、妖しい光を放っている。その上からぽたりぽたりと、かと思えばしゃぱしゃぱと、床に半分埋もれた大甕の中へ水は滴り落ちていた。無論、大甕はすでに満杯で、水はさらに大甕の縁を伝い社の外へ、お岩の外へ、音もなく流れ出している。そしてそんな大甕の前にはずいぶとすすけているが間違いない、マソホの赤い衣をまとった何者かが、雲太らへ背を向け立っていた。
 睨んだ雲太の目が、ぐっと奥へくぼむ。
 なら気づかず大甕へ、何者かは小脇に抱える物を傾けていった。
「そこで一体、何をされておるのですかっ!」
 見て取った京三が、押し止めて矢のごとき声を張る。
「それこそ魂おわす場所っ!」
 刺されて、何者かは傾けかけていたそれをはっ、と小脇へ抱えなおした。わずか、肩を引く。そこから雲太らを盗み見た。なら小脇にあるものは甕か。すぼんだ首がのぞき、そこに入っているものこそ毒か、と雲太に京三は見定め目を凝らす。
 瞬間だ。
 景色はたわんだ。
「なッ」
 雲太らの前で石でも投げ込まれたかのようにわん、と波打ち、波紋を広げてうねりながら、たわみは社の外まで広がってゆく。あの風は、その勢いに弾かれごう、と宙から吹きつけていた。

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