赤い川 の巻
53


 重い。
 逃げ出す暇もないまま雲太らは飲み込まれる。
 かざしていた火はひとたまりもなく消え、のみならず握っていた薪さえもぎ取られていった。勢いに体までさらわれかけて二人は手をかざす。これでもかと上背を倒し、力の限りに風を押し返した。
 「やはりわるさは、ヤマツお前かぁっ!」
 さなか投げ込まれた声はマニワのものだ。一人、放り出されたのがたまらず、雲太らを追いかけ社へ上がって来ていたらしい。布の下から顔はのぞき、言ったとたん風を浴びて、布が跳ね上がると共に表へ吹き飛ばされてゆく。
「マニワ殿っ!」
 京三が目で追うが、もうそこに姿はない。
 見届け、肩越しだった人影が足を踏み変えていった。雲太らへと、その体を向けなおす。そこでアゴは、胸へ埋まるほども引かれていった。おかげで頬には飢える手前とえぐって影が落ち、その上で雲太らを睨む両眼がぎろり、裏返る。かと思えばその両目は、ぼうっと蒼白い光を放ってみせた。しこうして浮かべた笑みは正気の沙汰になく、放たれる凄味はすでに人らしからぬ気配となって立ち込め、炭を散らしたかような黒い影が周りに広がり始める。
「これが、ヤマツかッ?」
 抜けた風に、掲げていた手を下ろして雲太はこぼした。ならヤマツは幾度か大きく深い息を繰り返し、埋まっていた胸からぐい、とアゴを持ち上げる。
「邪魔立てに来たか、この木偶の坊っ!」
 放たれた声の勢いに、またもや景色がたわんでいた。弾かれ風はぬるりと吹きぬけ、跳ね返して京三は伸び上がる。
「何をっ、この身を木偶と知ったるはヤマツにあらずっ! さて、そこにおわすはヤマツに祟りし荒魂かっ!」
 されば雲太も吟味ばかりしておれない。
「なるほど、毒を放つは魂と、ついにこの場で見定めたりッ」
 食らったヤマツが、しばし小脇の甕を強く抱きしめ身を縮めた。そうして腹をのぞきこまんばかり丸めた体の奥から、やがて地を這うほども低い声を吐き出す。
「……我は、流るる川の魂なり。束ねておはす御柱のもと、この地を祟りし荒魂とならん。すなわち我も怒りで野を治め、あまねく恨みで地を、染めてつかわさん……」
 それはまさに火を操るつかわしめ、鳩が言ったとおりであった。
 と、ヤマツの首はそこで伸び上がる。
「邪魔立てするは容赦せぬっ! 毒で果てまで流してみせようぞっ!」
 蒼白く光る両目をくわ、と見開いた。次いで腹の中までが見通せそうなほど大きく口を開く。がぁっ、と唸り声が上がったと同時だ。両手に取った甕を頭上へ持ち上げた。ひっくり返してだくだくと、浴びるがごとく中身を飲み干してゆく。
 ぽい、と投げ捨てられた甕が、社の隅で砕けて散った。
 様子は酒にでも酔ったかのようで、頭を揺らしヤマツは、げふ、と胃の腑のものを吹き上げる。ままに足先を、雲太らへと繰り出した。ならあろうことかそんな足先から、ヤマツの体は見る間に透けて、内に気泡を駆け昇らせてゆく。目を見張る雲太らの前でその体を、水へと変えていった。
「なにッ」
「そんなっ!」
 これはもう、驚いてばかりはおれない。叫んで二人は、伸び上がっていた体を地へ押さえ戻す。
「京三ッ」
 雲太が呼べば、すかさず腰から京三は剣を抜き去った。
「もちろんですっ!」
 その手は早くも柄頭の布をつまむと、ひと思いに引き抜いている。鈴が跳ね上がり、唸るお岩の狭間にジャンジャンジャン、鈴の音は鳴り響いた。
 耳にしたヤマツの足は、そこで止まる。かと思えば二人の前で、再び大きく口を開いた。そのとき何やらゴゴゴ、と音は、ヤマツの喉の奥から押し迫り、見定め雲太も手を打ち鳴らす。なら祈請は社を突き抜け、寄りあうお岩の狭間さえすり抜けると、夜空へ撃ち上がっていった。同時に、ヤマツの喉の奥から水しぶきは跳ね上がり、泡立ったかとおもうと水はごうっ、と吐き出されてくる。
 その量たるや荒れ狂う川の流れがごとし。勢いは崖を駆け下るがごとく。風にも飛ばなかったカワラケに石は、あっという間に蹴散らされて飛んでいた。ままに水は、頭を垂れて御柱を待つ雲太目がけて社を走る。あわや飲み込みかけてたところで、どうんと壁へぶち当たったように白く辺りへしぶきを散らせた。
 高天原の風だ。
 通じて雲太の手より吹き抜けたそれが、流れを手前でせき止めた。
 なら次の瞬間にも、散ったしぶきは雲太の手へ飛び、触れる間もなくじう、と滅して入れ替わりに、ぽうと光を灯す。
 感じて雲太はゆっくりと、合わせていた手を開いていった。
 そうして持ち上げた顔の目と鼻の先に、ざぶざぶ押し迫る流れはある。
 据え置いて鳥居より、塩はもさもさあふれ出た。
 引き換えに、風は雲太の前からほどけ始める。
 押し止めていた壁が力を失くそうとしていた。
 目にした京三が身をひるがえす様は早い。
「雲太っ! あとをお願いしますっ!」
 雲太の背へ回り込むなり、支えて肩を押し当てた。
 ならついに風は解け去り、乗り越え突き切り、水は転げて溢れだす。しぶきを散らせ雲太の前、高く反りあがっていった。見据えて雲太はうおおおっ、と叫び身構える。
 瞬間だ。
 迎え撃って雲太の手から、真っ赤な炎はぼう、と吹き上がった。かと思えば矢となって、一握りの塩を引き連れパン、とそれは飛び出してゆく。勢いに弾かれ雲太に京三は、わぁっと宙へ舞い上がった。どうっと床へ倒れ込めば、飛び出した火の矢は宙できゅるり、火球と丸まって、迫りくる流れと真っ向、ぶち当たる。それは火の粉か、はたまた水のしぶきか。とたん凄まじい衝撃に辺りへぱぁっ、ときらめくものは飛び散った。だがそれが火だったとしても、社へ燃え移る間もなく水が消し去り、しぶきだったとしても、火が湯気へ変えてしまう。
 火を出したのだ。あちちち、と雲太は手を振っていた。そうして目にした光景へおおっ、とうなり声を上げる。何しろぶつかり合った炎と水はその頭上で、力比べを繰り広げていた。擦り合せた互いの境界をグツグツ沸き立たせると、やがて火球の表に 伊邪那美神(イザナミ)を焼いた軻遇突智命(カグツチノミコト)の顔を浮き上がらせてゆく。
 ぎょろり、軻遇突智命の炎の眼が、流れを睨みつけた。やおらにゅっ、と火球の中から腕は生え、その腕も燃え盛っていたなら振りかざして、むんずと流れをわし掴みにしてみせる。引き寄せると同時に、押し合っていた体をひらり、かわして流れを巧みと脇へ抱え込んだ。
 体をかわされた流れがいくらかのしぶきを、噴き上げている。だがそれ以上、前へ流れ出る様子はない。まるで捕えられた魚のように、軻遇突智命の腕を嫌うと脇でじゃばじゃば跳ね踊った。離さず軻遇突智命は、その身を流れへ沿わせてゆく。辺りへじゅう、と鈍い音は響き、たちまち双方からもうもうと湯気は噴き上がっていった。
 と、軻遇突智命の眼が、社の外をとらえる。
 見届け伸び上がった雲太の動きは早い。
「京三、出るぞッ」
「まっ、待ってくださいっ!」
 言って床を押しやる京三の動きも相当なものだ。
 二人して表へ向かい駆け出せば、双方の背で厚い炎のはためきはぼぼぼ、とこだました。追い立てられて二人は布を跳ねのける。社の高い床から身を踊らせた。なら、かすめて二ひねりだ。足を火の矢に変えた軻遇突智命が、流れを抱えて同じく外へと飛び出してゆく。勢いのまま、寄り合うお岩の天辺にまで舞い上がると、そこでなお激しく身を燃し流れをグラグラ煮立たせた。
 見る間に干上がってゆく流れを二人は、転げたままで仰ぎ見る。たまった湯気がその顔へ、ぽたぽた、雨のように降り注いだ。流れを吐き切り社の外へ駆け出したヤマツもまた、この成り行きを布の前で見上げている。
「雲太っ!」
 様子を、体を揺すって京三が知らせた。
 だが手遅れか。
 せいっ、とヤマツの手は振り上げられる。
 なぞってその時、揺れ動いていた周りの彫り物が、ひとつ残らず宙へ飛び上がった。そこでパンパン、と砕け散り、粉となりそのひと粒ひと粒を、ことごとく水しぶきへ変えてゆく。
「ああっ!」
「おおッ」
 叫ぶ二人の前でそれきり、流れへ次から次に食らいついた。切れかけていた流れの尾は、おかげで元通りと伸びてゆき、見る間に元の勢いは取り戻されてゆく。のみならず、ヤマツも空へ向かいまたその口を、大きく開いてみせた。

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