赤い川 の巻
54


「その水ッ、待ったぁッ」
 跳ね起き駆け出す雲太の体が、お岩よりしたたる滴を飛び散らせる。
 ヤマツは喉の奥でごぼごぼ、音を鳴り響かせ、しぶきを辺りへ散らしていた。
「雲太っ!」
 呼び止め京三が、剣を投げる。
 振り返りざま受け取った雲太は、社の床へ飛び上がった。
「御免ッ」
 断るが早いか腰を落とす。ヤマツの首根っこめがけ、柄頭を振り下ろした。
 ジャン、と鈴が短く鳴る。
 むう、だか、ふえ、だかヤマツから声はもれ、とたんヒザからカクリ、力を抜いた。そうして倒れ込めば、間際ヤマツは出し損ねた水の代わりに口から一匹、鯉をぬるり吐き出してみせる。ヤマツはそれきりピクリとも動かなくなり、吐き出された鯉はやおら空で尾をしならせた。降り注ぐ滴を弾いて高みへ、昇ってゆく。ぱしゃり、軻遇突智命の締め上げる流れの中へ飛び込んでみせた。するとざばざばうねっていた流れへウロコ模様は浮き上がり、あれよあれよと言う間に、軻遇突智命の腕の中、流れは巨大な鯉へ姿を変える。
 そのひげを生やした大きな口が、ふかふか動いて息を繰り返せば、空気だけでなく合わせて景色も鯉の口を出入りした。雲太らの目の前はたわんで揺れ、あの風はそんな鯉の口から次から次に、ごうごうと吐き出される。
「むおぉッ」
 もう松明など消えるどころではなかった。薪ごと飛ばされ、跡形も消えてなくなる。流れていた水も地より剥がれて霧と散り、社が吹き飛びそうに揺れて軋んだ。
 見上げて雲太は手をかざすが、京三も、社の床より吹き飛ばされていたマニワも、伸びていたヤマツも、堪えきれずついにその身をさらわれる。気づけば七転八倒だ。両の手足を絡めてお岩の隙間より、ぴゅうと山へ放り出されていった。
 登ってきた石から石を伝い、誰もが山肌を転げ落ちる。
 木立に引っかかると、ようやくお山の中程で止まった。
 そうして放つうめき声が、つかず離れずのところから上がる。
 かき消しそのとき、回っていた目もピタリと止まる地響きは、お岩の中から聞こえてきていた。
 はっと顔を上げる気配が、方々で飛び交うのを感じ取る。ままに、見上げた木立の合間で空はぼうっ、と白く光った。なら光お岩はこれでもか、と揺れ動き、やがて何事か、と見定める雲太らの前で明々炎を、照らし出されてきらきらと水を、天辺より吹き上げる。
 見上げて雲太に京三は声を上げた。
 たまげてマニワは、さらに山肌を転げ落ちてゆく。
 吹き上がった二本の柱は互いの周りを巡り合い、ねじれて高く、より早く、空を駆け上がっていった。そんな水柱の先にやがて鯉の顔は現れ、火柱から腕は生える。生えた腕は星を掴まんとばかりにゅう、と伸び、鯉よりわずか先んじたところで開いた大口をめらめら、掴んでみせた。ままに拳を中へねじ込んだなら、そのとき拳は鯉の中でぱっ、と開く。やおら五本の指からごう、と炎を噴き出し、真っ逆さまと地めがけて水柱の中を駆け下りていった。
 炎を通した水柱が、真昼のごとく光りを放つ。
 たちどころに泡をふかせて、煮えたぎった。
 かと思えば次の瞬間にも水柱は、四方八方へ砕け散る。
 山を覆って水しぶきは飛び、鈍い音が野原の果てまでどうん、と響きわたった。
 散った水しぶきは、そんな響きと共に一滴、残らず湯気となってやがて空から消えてなくなる。
 貫いていた炎はそのままお岩の中へ戻っていった。
 あれほど明るかった空はそれきり縮んで暗さを取り戻す。星を浮かべていつもとおりだ。何事もなかったかのように雲太らの頭上を覆って、静まりかえった。
 ぶるぶる。
 頭を振って、雲太は我を取り戻す。
 転げ落ちたマニワがどうにか、雲太らのところまで這い上がってきていた。
 京三が忘れていた息を吐き出し、ぎこちなく目を瞬かる。
 その時であった。
 お岩の隙間にぽうっ、と光は灯って山へもれ出す。
 おや、と誰もがのぞき込んでいた。すぐにもわあわあ、騒いで逃げ出す。
 仕方ない、中から転がり出してきたのは火球だ。火球はお岩の前でピタリ、止まると、中からぱん、と四肢を広げる。顔はそこから持ち上がり、燃え盛る軻遇突智命は雲太らの前へ姿を現していた。
「鯉の胃の腑に祟りは宿りし! 清めて川は永劫の流れとならん!」
 吐いた言葉にごう、と炎が逆巻く。なびかせ軻遇突智命は、天を仰ぎ、がははと笑った。おさめて、吐き出された熱にあちち、と身を躍らせる雲太らを手招く。
「わ、わしか?」
 疑うのも無理はない。この熱さだ。なら京三の目が、ここぞとばかり雲太の役目だと言って睨んでみせた。仕方なく雲太はかざした手で熱を遮りながら、軻遇突智命へ這い寄ってゆく。前へ、軻遇突智命は腰を折った。どうにか足元へ辿り着いた雲太へ、つまんだ何かを差し出して言う。
「清めた魂はこれに納めたり。川と共に祀るがよいぞ。ん、ん」
 ぽとり、指の先からそれを落とした。
 兎だ。
 受け取るべくして雲太は手を差し出し、真っ赤に焼けた兎を受け取ることはかなわず、落ち穂へ落としてふう、ふう、焼けた両手へ息を吹きかける。様子に軻遇突智命はまたがははは、と笑い、聞きながら衣の袖で包んで雲太はどうにか兎を拾い上げた。とたんおお、と声を上げる。
 驚いたことに、そうするうちにも冷めた兎は透き通り、まるで水を固めたような石へ姿を変えていた。石は水晶というものであったが雲太に知る由はなく、遅れて歩み寄った京三もまた感心してみせる。
「なんとも美しい兎です」
 上へ、軻遇突智命の声は降った。
「そうら木偶ども、夜が明けるぞ! 持ち帰り、見せて里と和を結ぶがよい!」
 むっ、とそのとき熱気は増して、雲太らは身を縮める。見計らって軻遇突智命はぽん、と跳ね上がり、再び火球とその身を丸めた。ならそれは仰せの通りに、と雲太らが頭を垂れる間もないほどの勢いだ。尾を引きひゅるる、とか細い音を立て空へ舞い上がる。そこで消え入るほどに小さく縮んだかと思えば、ひと思いにどん、と爆ぜた。
 光景に、目を覚ましたヤマツがうひゃ、と跳ねる。
 頭上に、大輪の花は白く開くと、中から小さな欠片だけが、遠く高天原を目指して飛び去っていった。
 あまりの美しさに雲太らは見とれ、儚くも、そんな雲太らを残して花はゆう、と散りほどけてゆく。そうしてぱらぱら、何かを降らせた。目を凝らせば白い粒であった。肩に乗ったそれを、雲太は指でつまみ上げる。眺めてそうっと、舐めてみた。間違いない。塩だ。ひと悶着終えた山を、お岩を、流れる水を、軻遇突智命の塩は清めて優しく降り続ける。  

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