赤い川 の巻
55


 軻遇突智命が爆ぜっても、逃げず馬が木立へつながれていたことは幸いで、透き通る兎を懐へかくまい雲太は、その背へ飛び乗る。野原の底はすでに白々と明けつつあったが、眠気などというものはいま目の当りとした光景に吹き飛んでしまっていた。馬もほどよく休んだ様子だ。まさに身馬一体となり、雲太は明けの野を駆ける。
 しかしながら目を覚ましたヤマツは、社でのことをよく覚えていないらしい。だからして雲太は、毒にまつわる村と里の成り行きをヤマツへ語って聞かせた。それをヤマツはマニワの後ろで聞き、ほとほと驚いてみせたのち身の上を話し始める。
 それは村を飛び出したところで、すぐにも帰るつもりでいたというものであり、昔から社の祭壇、その大甕には川の神からのご神託が映るという言い伝えであった。だからしてヤマツはどうしようもない己を見極めるためその日、水源の社へ向かったのだと雲太らへ話す。


 かざした火が揺れていた。
 辺りはしん、と静まり返り、お岩の狭間でヤマツは社を見上げる。暗がりの中、浮かび上がる社のたたずまいはたいそうおっかなく、だからしてヤマツはそろりそろり、と社の高い床へよじ登った。伸ばした手で、垂らされた赤い布をめくりあげ、ちらり、かざした火で中をのぞき込む。息を殺して足を進めた。
 ちょろちょろ、ひたひた、聞こえる水の音は大きくなり、かざす火に、お岩の天辺から降り注ぐ水のきらめきが見えはじめる。迷うヤマツの心を見透かしてか大甕の丸い腹は、ヤマツのゆく手へふてぶてしくせり出すと待ち構えているかのようでもあった。
 ごくり、生唾を飲み込んで、ヤマツは大甕の前に立つ。
 火を傍らへ立てかけ、はあ、ふう、聞こえるほどに大きく吸い込むと息を整えた。村より持ち出した染め物をひと巻、懐より抜き出し、捧げて地に伏せ、ご神託を請うて祈り、うーん、と強くまぶたを閉じる。おずおず立ち上がり、果たして何とたまわるのか、立てかけていた火を再び手に取り大甕の中へ首を突き出していった。映る己の顔を、のぞき返す。
 ままにしばらく、ヤマツは待った。どれほどかたずをのんだことか知れない。だがついぞ大甕にご神託が浮かび上がることはなかった。ヤマツは眉をへこませる。きっと染めをせぬ自分は村の者ではないのだからして、川の神は何も告げぬのだ。思い、ふう、とため息をついた。映る己の顔もたがわずしぼんで息を吐き、見れば見るほどヤマツの心持ちを弱くしてゆく。
「どうしておいらはマソホの者だいうに、染め物よりも生き物ばかりが気になるんじゃ。兎も馬も、この手で写してみたいのう。生きとるように、彫ってみたいのう……」
 しかしかなわず、村の者らはどうして染めをせんのか、とヤマツを責めた。それはマソホにおるのだから当然だ、とヤマツにも知れてならない。しかしそう思えば思うほど、染めに心を定めようとすればするほど生き物を写したくて仕方なくなるこの心根だけは、どうすることも出来なかった。
「どうしてみな、こんなおいらを分かってくれんだろうか。マソホに生まれたが、悪かことじゃろうか……」
 吐いて、ぎゅう、と口を結ぶ。今度は水面に映る己の顔を、しかりつけていさめる村の者と見立てて睨んだ。すると顔はその時、水面で閉じたはずの口を開いてみせる。
「……そうかお前は、野原におる人がそうも憎いか」
 ヤマツは目を見張っていた。
「ならわしが、好きなだけ、お前に生き物を彫らせてやってもよいぞ」
 様子に腰を抜かすもしかりであったが、ヤマツはご神託をたまわりにきたのだ。ついに、と思えば水面の顔へ声を上げる。
「ほ、本当でございますかっ?」
 さらにぐぐっ、とのぞき込んだ。そんなヤマツの後ろ頭へひたり、ぱしゃり、お岩の水は降り注ぎ、かぶった火がじう、と消え入る。だが大甕の中に己が顔は映り続け、ヤマツへこう言った。
「その代り、お前の体をわしに貸せ」
「お、おいらの体を?」
「そうよ。お前のために、わしは写せるだけを用立てしてやろうと言うておるのだぞ。お前も何か、わしのために尽くせ」
 などと言われたなら、ひとたびはたまわったご神託に喜び跳ね上がったヤマツの眉も、再びハの字とへこむ。求めに戸惑っておれば、またもや水面で顔は話した。
「それともマソホへ帰るか? もう生き物を写すは、諦めたのか? 何もよこせといっておるのではないぞ。生き物を写すに石や道具がいるように、わしには降りて宿る身が入りようであるのだ」
 ヤマツは唸る。早く答えねば消えてしまいそうで、だからして、しどろもどろになりながら考えを巡らせた。そうして、ただ生き物を写してみたい、そのためにここまで来たことを思い起こす。何よりマソホを守る川の神が仰せられるのだから、とついにひとつところへ思いを定めた。
 その時、目は閉じられていたように思い出す。
 ままにヤマツはえいっ、と水面へうなずき返した。


「おいらは一度でええから、生き物をこの手で写してみたかっただけじゃぁ」
 野原の果てに、日はまあるく浮かび上がっていた。あまねく差し込む日の光は、野原にはびこっていた闇を明日の夜まで、今朝もさっさと掃き清めている。
「そのあと、お岩からたくさんの水が降ってきよって、おいらは大甕の中へ落ちてしもうた」
 こけた頬を日にさらし、少しばかりふっくらさせてヤマツは言った。
「昼も夜も好きなだけ生き物を写したように思う。けれど何が何だか……、よう覚えておらん。気がついたら、こんなことになってしもうておった。毒も戦も……、そのせいでわらしべが捕らわれておるなんぞ……」
 しかし声は枯れ、ヤマツはうつむく。
 聞いて雲太は、馬の腹を蹴りつけた。
「しかし、よう出来た兎の彫り物であったぞッ」
 なら京三も思うところは同じだ。
「ええ、生きておるのかと見間違えて、追い払おうとしたくらいですっ!」
 そうしてヤマツへこうも告げた。
「悪しき魂につけ入られるすきがあったことは、ヤマツ殿の省みるところ。ですが魂の前に立てば人など、ひとたまりもないのです。拒むなど、至難の業。川の毒はそもそも、そんな荒魂の祟りがなしたことっ! ヤマツ殿も、村も里も、みな同じくその荒魂に祟られておっただけなのですっ!」
 聞いたヤマツははっ、と顔を持ち上げる。その目で京三を、うなずき返す雲太をとらえてみせた。見る間に潤んでゆく両目へ、陽の光は射す。たまった涙は輝くと、ヤマツはそれきり声を上げて泣き始めた。
「おいらが、おいらが、しっかりせなんだからじゃぁ。みんな、おいらが生き物なんぞ、写したいと思うたからじゃぁ」
 泣き声を引きずり、馬は走る。
 と、それは行く手に小さく浮かび上がった。
 村の入口に立てられた櫓だ。おっつけ地はめくれ、ワラ屋根が昨日と同じに並び始める。
「間に合うかッ」
 結った髪を振り乱し雲太は口走る。
「いえ、なんとしでもっ!」
 袂をなびかせ京三もまた、突き返していた。

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