赤い川 の巻
57


 馬を蹴り出し飛び降りる。
 合図に京三も馬を離れると、和二の元へ駆け寄った。
 ヤマツとマニワは懐へ手をもぐりこませた雲太へすり寄り、背に置いて雲太は、祟りと聞かされ息をのんだ人垣の前へ兎をどん、と晒し置く。
 初めて目にした人垣は、退いたそこからにゅう、と首を伸ばしてのぞき込んでいた。ままに真偽を確かめ、誰もがしばし押し黙る。
 風が、野原をわたっていた。
 同じく最後の日の光もまた野原を薄く走りゆく。
 と、その時だ。
 光はすうっ、と兎の中へ差しこんでいた。差しこんで、ぱあっと兎を輝かせる。光景に人垣はおおっ、とどよめき、雲太らも何ごとかと目を見張った。うちにも兎はますます光を強め、見ておれぬほどの黄金色をまといだす。その眩しさにおもわず手をかざしたなら、開いた指の隙間から見えたものは、兎の腹へ一滴の滴となって落ちた影であった。落ちて影は兎の丸い腹をなぞり、「の」の字を書いて身をひるがえす。続けさま、ぱしゃりとそこで跳ね上がった。
 様子にあっ、と声をもらしたのはみなが同じだ。だからして、見間違いでないことは確かとなる。
「ほんに、何かおさまっておられるっ!」
「ありゃ、鯉じゃっ!」
 声は次々、上がっていった。
「鯉になって魂が、わしらの前へお姿をお見せになられたんじゃっ!」
「こりゃ、言う話は本当か」
「いや、そうよ。マソホでのうて、わしらは祟りにおうておったんじゃっ!」
「祟りじゃ、祟りにおうておったんじゃっ!」
 ついに言う者が現れたなら、人垣からひい、とすきま風のような悲鳴は放たれる。
 前において日は沈み切り、光りはふつり、途切れていた。それきり鯉も姿を消すと、兎はたちまち冷たく縮んで、透けた石へ戻ると野原にうずくまる。
 ああ、と名残惜しむ声は、気が抜けたようでいただけない。
 置き去りにしてまた風は、走り抜けていった。
 なら光景は、そんな風になびくかのようだった。そこ、ここで、人垣らは兎へ手を合わせてゆく。もう二度と荒ぶることのないよう祈り、頭を垂れていった。
 これにて真は伝わったか。雲太もいからせていた肩を下ろす。
 モトバがそんな兎の前へと、進み出ていた。ヒザを折ると袂へ両手を忍ばせ、掲げてうやうやしく頭を下げる。戻してそうっと、兎をすくい上げた。
「しかと……」
 立ち上がって、伏せた瞳を雲太へ流す。様子におごるでもなく、雲太はただうむ、とだけ答えて返した。
「しかしなぜマソホはこのことを話さずにいた? 川の神となれば己が村の守り神。知らず、確かめず、戦にまで応じたなどとは、おかしな話のように思えてならぬが」
 などとモトバの問いは、実に鋭いものと言えよう。
「そ、それは……」
 雲太は言葉に詰まり、聞きつけた人垣も祈り終えた顔を怪訝と上げてゆく。
 引きつけそのとき、ヤマツは誰もの前へ躍り出ていた。
「それはっ! おいらのせいでございますっ!」
 地につけた両手がばん、と音を立てる。額をこすりつけるほどに伏してヤマツは、村のときにもましてモトバへとまくしたてた。
「生き物、写したさに、おいらが魂へこの身を譲り、祟りの手伝いをしてしもうたせいでございますぅっ!」
 言い分は聞き逃し難く、ヤマツの衣はすすけているとはいえ赤い。おかげでおさまりかけていた人垣は、ひとたびざわつき始めた。モトバもまた、ヤマツへその足を踏み変えてゆく。
「気づいて村は、おいらがえらいことをしでかしたと、怖くなっておったのでございます。けれどおいらは、とっくに村の者ではございませんっ。おいらは染めをせぬ怠け者っ。村の嫌われ者なのでございますっ! そんなおいらを村がかばったりなんぞしはしませんっ! 黙っておったのは怖かっただけのことっ! ですから村は責めんでやってくださいまし。どうぞ子も解いてやってくださまし。罰ならこのおいらが。おいらが、つぶてを受けて、償いますからぁっ!」
 面を上げれば、向けられた目に怯んでしまいそうでならない。だからしてヤマツは野原へ額をつけたまま残りを吐き出した。それきり縮こまると動かなくなる。
 見下ろして雲太は唇を噛み、その顔をモトバへ向けた。
「ですが、それもまた祟られてのことっ! どうかこの者に憐みをっ!」
 やおら京三が、モトバへ訴える。
 暮れた日に、闇はますます濃さを増していた。
 やがて見下ろしていたヤマツの背から、モトバの視線は持ち上がってゆく。
 果たしてなんといってこの場をおさめるのか。握った拳に力は込もり、雲太は様子を見守った。彼方より馬のヒヅメが聞こえてきたのは、ちょうどその時だ。ものものしさに張り詰めていた空気はかき乱され、なんだ、どうした、とたちまち辺りで頭は揺れ動く。雲太とモトバもたがわず音へ体をよじった。なら暗がりの向こうからだ。走りくる馬の群れは、目に飛び込んでくる。
 何やつ、と武士が飛び出していた。うちにも近づく馬の上へ赤味は差し、マソホの衣だ、この哀れな男を取り戻しに攻めてきたか、と人垣が声を上げる。
 聞こえてヤマツも、下草の貼りついた額をにわかに起こしていった。
「お……、親方ぁ」  

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