つくし の巻
63


 次の瞬間、娘御の体がひゅっ、と岩の下へ吸い込まれた。
 いかんっ、と思えば雲太の小便も切れる。
 身をひるがえし、へばりついた岩の先より雲太は手を伸ばした。触れたそれを精一杯の力で掴む。腕だ。娘御の腕がかろうじて、雲太の手の中に残っていた。とたんずん、と雲太へ重みはかかり、肩は伸びて、離すまいと雲太は目を閉じ堪える。それでも谷底へ引きずられそうになったなら、唸ってもう一方の手を岩へ突き立てた。
 なんとか押し止めたところで、雲太はゆっくり閉じていた目を開いてゆく。
 寒気はやおら、そんな雲太の背筋を駆け抜けていった。
 目も眩むほどの谷だ。見下ろした雲太の前に口を開いていた。めがけて伸びる己が手の先に娘御はぶらさがり、風に吹かれて揺れている。なら、落ち着いてはおれんだろう。足元を見下ろし娘御は、雲太へ顔を持ち上げた。
「何をなさるのですかっ! どうぞその手を、お離しくださいっ!」
 あろうことか言い放つのだから、雲太の目は白黒、裏返る。
「なッ、何を言っておるかッ。離せば落ちる。落ちたら死ぬぞッ」
「そのつもりで、ずっと山を歩いてまいったのですっ!」
 娘御は言い放ち、その言い分にも雲太はあんぐり、口を開いた。
「い、一体、お前は何をしているのだッ」
 すると娘御は、掴まれていない方の手でぺしぺし、握る雲太の手を叩き始めた。
「かまわずこの手をお離しください。わたくしなど、わたくしなど、死んでしまえばよいのですっ!」
 足さえ振って暴れ出す。おかげで雲太の体はずるり、谷の底へと引きずり込まれていた。
「こらぁッ、じっとしておらんかッ。
この世に死んでよいものなど、おらんッ。死んで、みなを悲しませたいのかぁッ」
 もう、必死の思いだ。言って雲太は、岩へついていたもう一方の手もまた娘御へ伸ばす。
「いいえ、悲しむ者などおりませんっ! 親は、できそこないのわたしを嫌って捨てました。そんなわたくしなど、誰が嫁にもろうてくれましょうか。生きておっても仕方がないのですっ! いっそ、死んだ方がましなのですっ!」
 娘御ははなお暴れながら投げ返し、うちにもまた雲太の体はずるり、谷へ引き込まれていった。
 もうだめだ。娘御を握る手のひらもにわかに痺れはじめたなら、さすがの雲太の頭へも、言葉はそう過る。だがここでこの手を離し、娘御を谷へ放って自分だけ助かるなど出来そうもない。しかしながら一緒に落ちることもはばかられたなら、もう言葉はやぶれかぶれと飛び出していた。
「わッ、分かったぁッ。わしが嫁にもらってやるッ。だから大人しくしろぉッ」
 最後の力を振り絞る。雲太はそれきりむぐぐ、と唸って岩に張りつけていた胸を浮き上がらせていった。気を抜けば頭からごろり、谷へ落ちてしまいそうなのだから、息すら吐けない。だからして顔を真っ赤にすると、どうにか右、左、と足を立ててその場に座り、踏ん張り堪える。
 その足先から、小石がぱらぱら崩れ落ちていた。
 かぶったところで、娘御の動きは初めて止まることとなる。
 そんな娘御が、おずおず雲太を見上げていた。黒々とした瞳に雲太の顔を映し込む。ままにひとつ、瞬いた。次の瞬間、手を、握る雲太のそれへぱしり、と添える。結んだ唇で、離すまい、とすがりついてみせた。
 様子にようし、と言って返すかわりだ。雲太は娘御の着物へ、もう一方の手をかけた。噛みしめた奥歯がみちみち鳴っていたが、かまってなどおれない。雲太はうおぉっ、と声を上げる。かっ、と見開いた目で投げ捨てるかのごとく、娘御を谷から引っぱり上げた。
 勢いに、娘御の体が宙を舞った。
 まさに釣り上げられた魚となり、どうっと岩の上へ放り出される。
 勢いを持て余し雲太も隣へ身を投げた。
 風がそよぐ。そんな雲太の頭上を、軽やかと小鳥は一羽、舞っていった。
 静寂は広がり、たちまち破ってあはあと、雲太は荒い息を繰り返す。大の字となり、しばしその場で目を閉じた。
 と不意に暗くなったのは、そんな雲太のまぶたの向こうだ。おっつけ、しっとり冷ややかな感触が頬に触れる。火照った雲太の頬にそれは心地よく、驚かされて雲太はまぶたを開いた。そこに間近とのぞき込む娘御の黒い瞳を見つける。
 ぎょっ、と眉を跳ね上げたことはいうまでもない。なら、頬に触れているのはそんな娘御の手らしく、のみならず娘御は雲太の見つめる前でもう一方の手もまた伸ばしていった。しっとり冷ややか感触はまた雲太へ伝わって、両頬を挟まれ雲太はぱちくり、目を瞬かせる。
「な、なんだ」
 呟けばぺたぺたと、それきり娘御の手は雲太顔を探り始めた。ずんぐりした鼻へ、濃い眉へ、大きな口へ、次々と触れて回る。あっけに取られて雲太はしばし、なされるままとその場に固まっていた。ようやくわけに気づくことができたのは、娘御が手を引き戻してからのこととなる。
 呆けていた雲太の目に力は戻っていった。寝ころんでいたそこから体を起き上がらせる。押されて娘御はぺたり、と雲太の前に座り込み、向かって雲太は口を開いた。
「まさかお前、目が、見えんのか?」
 娘御は、ひとつこくりとうなずき返している。
「それで死のうと……」
 呟けばまた娘御は雲太へアゴを引いて返した。
 おかげで雲太は返す言葉をなくしてしまう。
 などとその間を察したのは、娘御の方であった。
「やはり見えんようでは、だめですか? 嫁にはもらっていただけませんか?」
 詰め寄る声は心配げで、雲太はたちまち我に返っていた。
 何しろ嫁にしてやる、などと口走ったのはのっぴきならぬところだったからで、雲太にハナからその気などありはしない。だが明かしてしまえばこの娘御は、また飛び降りそうで口になどできそうもなかった。
「あ、いや、その」
 泳いだ目が、やがて小便をすませたきりの袴のヒモをとらえる。酒が入っていないのだから仕方ない。あいや、いや、いや、で引き上げた。いや見えておらんのだからと思いなおし、やはりじいっ、と見つめらて雲太は慌てて整えなおすことにする。
「こ、これは困ったことになったな」
 言えば聞こえてしまったようだった。
「……やはり、めしいておっては、もろうてもらえんのですね」
 力ない娘御の声が雲太の耳へ届く。その体は見る間に、しゅぅ、としぼんでいった。ままに雲太へ向けていたひざを、娘御は岩の先へ向けなおす。
「なッ、何をいっておるッ。見えぬことは見えぬことだッ」
 などと咄嗟に口走ったのは、岩の先でひるがえした身と同じであった。
「き、気にはしておらんッ」
 だからして言ってからはっ、と雲太は我に返るがもう遅い。
「ほんとう、に?」
 娘御はすでに曇りのない真っ黒な瞳で確かめ、前においたなら、それこそ金輪際、嘘だ、とは言えなくなってしまう。
「ほん、とう、だうッ」
 唸って雲太は、無理から返事をひねり出した。おかげで目は寄り、顔は鬼とむくれたが、それこそ娘御には見えていないのだからかまわない。証拠に娘御は、たちまち頬を桜色に染めていった。瞳ををきらきら輝かせると、雲太をおののき後じさらせるほどの笑みをそこに浮かべる。かと思えばかしこまり、雲太の前へ座りなおした。そろえた指はまるで白魚か。岩に立てるなり、しずしず頭を下げてゆのだった。
「名を、つくしと申します。 不束者(フツツカモノ)ですが、 どうぞ末永くよろしくお願い申し上げます」
 前にして、雲太はぎゃふん、と跳ね上がっていた。我に返って投げ出していた足をしまいこみ、ともかく名乗ってつくしへ頭を下げる。
「わ、わしは雲太だ」
 その頭は勢いあまってごん、と岩へぶつかり、雲太は目を回して顔を上げた。だがこれまた見えていないのだから、つくしの顔は満面の笑みのままだ。
「それでは旦那様、旦那様はこれからどちらへ向かわれますか? つくしはとうに捨てられた身、どこへ戻るつもりもございません。つくしは、つくしの命を救って下さり、嫁にまでもろうてやるとおっしゃる旦那様を、どこまでもお慕い申し上げとうございます。どこなとつくしに申してくださいませ。お供させていただきます」
 言い分に、雲太はぶつけた頭のふらふらに加えて、たちまちくらくら、気を失いそうになる。振って正気をつなぎぎ止め、気丈とつくしへこう言った。
「いや、いかん。旦那様は、いかん。わしのことは雲太でよい。これからは雲太と呼ぶように」
 ならつくしはしおらしく、はいとだけ答えてみせる。様子になおさらいかん、と雲太はつくしへこうもつけ加えた。
「それから、そんなにかしこまらんでもよい。その方も疲れるだろうが、わしも疲れる。いつも通りに振る舞え」
 言い分はずいぶんおかしかったようだ。つくしはくすり、笑う。それはまた雲太をどきり、とさせ、ままにつくしは言いなおしてみせるのだった。
「はい。雲太、さ」
 あわわ。
 雲太のうめき声は絶えない。かまうことなくつくしは手探りで雲太へ近づいてゆく。触れて手繰った袂を、きゅうと握りしめるのであった。  

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