さらば三兄弟 の巻
79


 消えた姿に代わり、山肌を覆う枝葉が激しく揺れ動く。
 揺れはひとたび、頂、目指し駆け上がり、かと思えば強くしなった木立の中から小枝を巻き上げ、男はひょう、と飛び上がった。
 その背で闇が、空へ食らいつく。
 わいて出たかのごとく黒雲は、闇を埋めて寄り集まった。
 やがて重たげと渦を巻き、山を影で包み込んでゆく。
 飛び上がった男はそんな暗がりもただなかの、盛り塩かと思しき山の頂へ、拳を突き立て降り立った。
 やおらどくん、と拳は脈打つ。
 感じ取り、男は面を持ち上げていった。
「八十神らは、手はず通り動いたか」
 呟けば、渦巻く黒雲が厚みを増してもわり、山へ押し迫る。風がにわかに吹き始め、男の眉間もうごめいた。
「比べて、もう馬脚を現すとは」
 け、と吐き捨て、その名を口にする。
「くれてやっても、しょせんは貧乏神。せっかく足止めさせたものを。甲斐のない」
 そうして胸に残る息を、はああ、と絞り出していった。
 地に突き立った拳がまた、どくんと脈打つ。
 押し殺し、男はしぼんだ胸へ今度は、細く息を吸い上げていった。そのとき唇の端はにやり、持ち上がる。
「だが今や国津神らは、我が怒りの脈とつながりにけり……」
 頭上で黒雲はますます厚くなろうとしている。そこから吹き降ろされる風が、ひゅうと男の衣をひるがえした。ままに男はくわ、と両目を見開く。
「すべてがここへ、集まってくるぞぉっ!」
 うおおおっ、と唸り声は上がっていた。声は山に跳ね返り、男の髪を、衣を、空へ向かって吹き上げる。はためかせ、男は拳を山の中へぐい、と押し込んだ。なら硬かろうはずの地はその時めくれ、男の拳をごぼごぼ、飲み込む。嫌って山はごごご、と揺れ、枝を打ちつけ木立もざんざん、音を立てた。するとその足元でカタカタ、跳ね踊りだしたのは小石だ。そのうちふわ、と落ち穂までもが浮き上がり、囲われ男は嬉々とした面持ちで、さらにずぶずぶ拳を地へ埋め込んでみせる。
 ついにヒジまで押し込んだとき、男は口をはあ、と開いた。
 脈を掴み取ったり。
 声は高らかと響き渡り、もろとも掴んだ何かを引き上げて、千切れんばかりに背をしならせる。重さに伸びた腕が筋張った。ならその先、引き上げられてやおら赤黒い何かは、地の割れ目に顔をのぞかせる。
 焼けて溶けた土だ。
 瞬間、どうっ、と噴き出していた。
 轟音が空を叩きつけ、勢いに山の頂は木端微塵と、吹き飛んでしまう。
 代わってそのとき焼け土の柱は、三輪のお山に突き立っていた。


「そうか、来るのが分かっておったか」
 静まり返った社の中に八十神、二番兄の声は響く。
 追いかけてのぞいた屋根の上、驚いた様子もなく手をつき座した 足名推命(アシナヅチ)手名推命(テナヅチ)を、烏は屋根から見下ろしていた。
「はい。風の便りが馬より先に。我らも安らかと眠ってはおれません」
 答える足名推命は意味ありげだ。
 やおら二番兄の目が左右へ素早く動く。
「確かに。ぬし様が始められた様子」
 とたん足名椎命と手名椎命は、その名を畏れてははぁ、と縮こまった。だが烏にこそ、その名に覚えはない。
「知れておるなら、こうしてはおれぬ。我らもこの地の国津神らを率い、ぬし様の元へ馳せ参じるぞ」
 うちにも言って二番兄は、社の奥へ向け足を繰り出す。
「本当にそのようなことを、お始めになられるのでございますか?」
 問いかける足名推命の面持ちは心配げだ。声に二番兄は、烏の真下で振り返ってみせた。
「でなければ、やがて野は天津神らに召し上げられる定め」
 言いようにむむむ、と目を寄せたのは、烏だ。何しろ国譲りのことは天津神も一部しかしらぬ天照の企み。どこから漏れたか。うがっておれば二番兄は、こうも言ってのけたのだった。
「ぬし様はそのために大国主命の元へ下られた天津神。だが下られたからこそ、我ら国津神の強い味方となられた」
 なるほど、それで合点はゆく。
 ぬし様こそが、天照の遣わした大国主命の幸魂、奇魂、木偶らの探す神だ。
 が、納得したのも束の間であった。驚きのあまり烏は危うく、かあ、と声を出しかける。慌てて翼で嘴を覆い隠した。
 気づく事なく二番兄は、憂いていた事態がもう企みに止まらぬことを、つまびらかとしてゆく。
「これより野を我らのものと留めおかんため、ぬし様と共に立ち上がり、腑抜けたオオモノヌシより野を取り戻す。ひいては召し上げんとする天津神らより守るべく、野のすべてを祟りで覆い尽くすっ!」
 いざ行かん、と手はそこで振り上げられた。
 烏もまた国津神らが馳せ参じる先、探す神はどこかともげんばかりに首を振る。目を泳がせ、泳いだからこそ、はっ、と気づいて空を仰ぎ見た。この暗さこそ夜ではない。ようやく事に気付かされる。これこそ手名推命のいう風の便りに違いなく、日の届かぬ祟りの大きさに改め烏はうろたえた。
 とそのとき最果てで、どうん、と低く何かの弾ける音はする。
 重なり、足元から二番兄の笑い声は吹き上がった。
「おお、ぬし様が、ぬし様が呼んでおられるぞぉっ!」
 すかさずごごご、と唸り始めたのは地だ。揺さぶられて烏も眉間の羽を逆立てる。これはいかん、と目をさ迷わせた。だが野は広すぎ、どこで何が起きているのやら見当がつかない。いや、落ち着け、と烏は己へ言い聞かせる。
 ままにぎゅう、と目を閉じた。
 と、震える羽に気配は触れる。
 それは空飛ぶ時によむ風と同じであった。
 ざわめき始めた国津神らが、ぬし様めがけて流れゆく風を感じ取る。
 瞬間、烏は目を開いた。
 翼を広げ屋根を蹴り出す。
 向う先は、東。
 感じた流れを辿って空へ舞い上がる。
 すぐにも姿は突風がごとし気流に乗ると、烏は翼を広げて空を滑った。
 やがて行く手に、闇を吐き出しねっとり渦巻く黒雲は見えてくる。とはいえこれでも密命預かる黒き秘密エージェントの烏だ。目の当りとしたところで怖気づくようでは、天照とさしで話もできまい。
「なんの、八咫をなめてはいけませんよ」
 むしろ翼へ力をたくわえる。打ち下ろせば速度は上がり、矢となり烏は黒雲へ飛びこんでいった。


 及ばぬ出雲に日は昇る。
 受けた光に湖は、昨日と異なる輝きを放っていた。
 眩しさに目を細めながら出立の準備を整えた雲太らは、大国主命の屋敷を探して湖のほとりを歩き始める。
 和二の教えがうまいのか、つくしの覚えがよいのか。朝げの支度はおろか一人でナベを洗いに向かうつくしはもう椀を重ねて荷造りし、時に荷を負う和二を助ける働きぶりだった。出来ずにいたのはめしいておるから、と退けられていたせいで、本当のところは違っていたのだ、と雲太は今朝も思い知らされる。
 おかげでいらん、と言われる心配も薄れたのだろう。つくしがめそめそ泣くことはもう、なくなっていた。雲太の袂を掴んで離さぬこともなく、その安堵が今も湖のほとりを自由に歩かせている。
 だが屋敷へ着く前に、話しておかなければなぬことはあった。それはつくしが自由にすればするほど不意打ちを浴びせるようで、雲太は気が進まない。どこか卑怯にさえ思えて言い出す決心はつかず、雲太はどこか力の入らぬ足取りで湖のほとりをなぞっていた。
 そんな湖に波はない。繋がれた小舟は新しく、真っ白な水鳥が魚を狙う姿は美しかった。蟹を取る子供の声は賑やかで、桶に乗った女どもが沖へとようよう、漕ぎ出してゆく。雲太らとすれ違う男どもは小石のような貝を運んで声高に話し合い、大国主命を罵る女の話など嘘だと言わんばかり、出雲は活気にあふれていた。
 だが何をどう眺めても気は入らない。気づけば雲太の目は、和二が手を引くつくしを追いかける。
 もちろんこの役目を代わる者など、いないことは承知していた。ようし、と腹を決めたのは、だからして何かきっかけがあってのことではない。しかし雲太はそのときおうい、とつくしへ声を上げる。

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