さらば三兄弟 の巻
82


 だがしかし、雲太の話を聞いた大国主命はさえなかった。兄神らの仕打ちから蘇り、素戔嗚の試練を潜り抜けたあの勇ましさはどこへやら。呆けた顔を震わせ右へおろおろ、左へあわあわ、うろたえる。
「何をしておられるか。今すぐ市へ発つ準備をッ。一刻も早く荒魂を鎮め、三輪の山に祀らねば、国造りが滞るどころか大きな祟りが野を襲う一大事ッ」
 痺れを切らせて立ち上がった雲太にさえひゃぁっ、と腰を抜かす始末だ。おかげでようやく目は覚めたか、青ざめる須勢理姫を促して支度に、屋敷へと走り去ってゆくのであった。
「馬があれば、少しでも早く戻れるのですが」
 見送り京三が呟く。雲太もうむ、とうなずき、都合のつくところはないかと辺りを見渡した。
 とその目に日の中に、にじむ影は映る。それは見る間に大きくなると、あっという間に日を覆い隠して野に影を落とした。何事か、と思えばこそだ。雲太は体ごと向きなおる。目を凝らして、お、と口をすぼませた。
 鳥だ、鳥がまっすぐ雲太らの方へ飛んできている。その勢いはただごとになく、雲太らはもののけかと身構えた。なら風を巻きつけ、一羽の鳥はふわり、そんな雲太らの前へ舞い降りる。嘴からくわえていた霞をぺ、と吐き出すなり雲太らへ声を張った。
「我は天照より命を授かり、そなたらの空を飛んでおった八咫烏なりっ!」
 雲太らがなにを、と身を乗り出したことはいうまでもない。ならこちらをご覧なさい、と烏はかちかち爪を鳴らして足を突き出し、のぞき込んで雲太らは、その黒い羽にも、三本ある足に、おお、とうめいた。
「ほっ、本物なんだぞうっ!」
 和二が拳を握り、目を輝かせる。
「確かにッ。八咫烏といえば天照のつかわしめのはず」
 雲太もうなった。
「でしたら、わたしたちは今、行くべき道を山向こうの市と定めたところでございます」
 京三が今しがたの話を烏へ切り出す。やおら烏は否、と嘴を開いてみせた。
「市にあらず。今や探す神は三輪の山におられますよっ!」
 示された場所は思いにもよらない地だ。雲太らは顔をしかめる。
「そこですでに国津神らを束ねて荒ぶる始末。野が巨大な祟りに食われておるのをこの目でしかと、確かめてきたところ」
「の、野が食われておるだとッ?」 
 そんな話は聞いたこともなかった。
「そんなことにっ?」
 雲太と京三は目を剥いて伸び上がり、和二などたまげて腰を抜かしてしまう。
「お、おっかないんだぞぅ」
「さしずめ市では、八十神とこの祟りを企んでおったのでしょうな。わたしも市より追いかけたまで。何しろ国津神らとの間を取り持ったのは、八十神のようでございますからね。根が深い」
 烏は語り、聞いた和二がたちまち投げ出していた両足をぶんぶん、振り回して悔しがった。
「ならお山までは遠くて、遠くて、遠いんだぞ。うんにい、けいにい、間に合わないかもしれないんだぞぉっ!」
 だがうろたえる間もありはしない。
「ええ、ええ。そのために用意して参ったのです」
 ここぞとばかりに烏は、ペ、と吐き出したものへ頭を振る。
「これ、天浮橋、ひとっ飛びで行けますね」
 呼びかけたなら霞がごとし白い塊は、そこでぴょん、と跳ね上がってみせた。そういえばこのような形であったか。雲太らは高天原より国中之柱まで世話になった天浮橋を思い起こし、烏は翼を空の彼方へ振り上げる。
「乗ってただちに向かうがよいっ!」
 声に京三と和二は目を合わせた。うなずき合えば呼吸は阿吽だ。尻もちをついていた和二を引っ張り起こして京三は、たちまち天浮橋へ駆け出す。和二の尻を押し上げよじ登り、自身も天浮橋へ這い上がった。
「野が食われておると言いましたがね」
 あいだも烏はたたみなおした翼で神妙と、なお雲太へ話し続ける。
「その実、祟りの中心は嵐が吹き荒れ、地は火を噴き、崩れて消えた野が闇と口を開くこの世のものとは思えぬ光景。目にした時はわたしでさえぞっとして、ついぞ祟りに身を滅ぼしかけたほど。よいですか」
 そこでぐっ、と目を細くした。
「何を見ても躊躇をいたすな」
 込められた力は雲太へしかと伝わり、雲太も両の拳を握りしめる。
「それが役目と気を確かに。着けばすぐにも祈請なさい」
 忠告には、アゴを引いて返した。見届けた烏はとにかく気忙しい。早くも雲太へ尾羽を向ける。
「わたしはこれより、天照へこのことを申し上げに。必ず、お力添えはあるはず。だからして信じてことにあたるのですよ」
 最後、ここまでよくやった、と口添え烏は雲太へ微笑んだ。身の引き締まる思いで受け止めて、雲太は烏へ頭を下げる。前から烏は、ひとたび空へ舞い上がった。
「雲太、早くっ!」
 呼んで京三が手を振り上げている。
「分かった。今、行くッ」
 面を上げて雲太は返し、その身をひるがえした。もうためらってはおれない、とそのとき覚悟は決まる。
「そいうわけでつくし、お前とはここまでだ」
 信じられぬ話の数々に、唖然としているつくしへ言った。だがつくしにとってそれは突然で、頬は見る間に歪んでゆく。
「なにを、つくしも、つくしも共に参りますっ!」
 言うが早いか雲太の声めがけ、地面を蹴り出した。勢い任せのそれはまた雲太にぶつかりそうで、掴んで押し止め、雲太はその顔をのぞき込む。
「聞いておったろう。向かう場所はただごとにない様子。そのようなところへお前を連れてはゆけん」
「いやです。離れ離れはいやですっ! つくしは雲太さの嫁ですっ!」
 聞かずつくしはむずかり、様子に雲太はとうとう観念した。最後の最後を絞り出す。
「その、わしが嫁にもらってやると言ったのは……嘘であったッ」
 とたんぴたり、つくしの動きは止まっていた。張り詰めた瞳はそのとき見えぬままに雲太をとらえ、飲んだ息にその体を強張らせてゆく。だがここで言わねば後のことが分からなかった。ずっと嫁のつもりでおられても困る。だからして雲太は心を鬼にした。
「お前が死ぬと言い張るものだから、つい口を滑らせてしまった。言ったところでお前も本気にはせぬだろうと、たかをくくっておったのだ。だがそれもこれも、もはやこれまで。助けられた恩義などと、考えずともよいのだぞ。わしには成さねばならぬことがある。つくしを助けたのは、そのひとつだ。だからしてつくしは、つくしの成すべきことを成せ。これよりつくしは、その正しき道を歩め」
 わかったか、と雲太は口を閉ざして返事を待った。ならつくしは、ようやくのんだ息を吐き出してゆく。その息に、わなわな唇が震えていた。身支度をすませた命が戻って来たのはちょうどその時で、おうい、と雲太へ手を振り上げる。
「馬を表へ回すよう、言いつけて来たぞぉっ!」
「それでは間に合わぬと分かり申したッ。向かうは三輪の山ッ」
 雲太は振り返り、命へ行き先が変わったことを告げてつくしへもう一度、向きなおった。
「言わねばと思っていたが遅くなった。すまぬ。許せ」
「そらそら、いつの間に行き先が変わってしまったのか?」
 駆けつけ命は唇を尖らせ、雲太はつくしから手を離す。空を指さした。
「八咫烏が、わしらに道を開いて下さった」
 そこで烏は高天原をめざし、ゆうと翼を広げている。
「ほう、ほんに足が三本ある」
 遠ざかりつつある姿を額にかざした手で見送り、命がほとほと感心してみせた。横顔へ、雲太は山まで天浮橋で行くことも説く。命はそれにも、へえ、と声を上げ、天浮橋へ目をやった。
「これが爺婆らも乗った、天浮橋であるか」
 そら 伊邪那岐神(イザナギ)伊邪那美神(イザナミ)素戔嗚(スサノオ)の生みの親なのだから、言い回しに間違いはない。連れ出されてきた馬をよいよいと追い返し、命はすたこら天浮橋へ駆け出してゆく。その体を和二と京三が引き上げた。なら次は雲太の番となる。雲太は急ぎ負っていた荷を身から解くと、つくしへ押し付け、持たせてやった。
「そら、つくしが食えば六日分の穀がある。しばらくはこれでしのげ」
 他にもうないかと辺りを見回す。走って和二の背からマソホの赤い布を引き抜いた。それもつくしに抱えさせる。
「袂が焦げたままだ。これで新しい衣をこしらえよ」
 抱きしめつくしはうつむいてしまい、そんなつくしから後じさって雲太は、しからば、とひとつ頭を下げた。
「……いやです」
 そのとき声は、投げつけられる。響きは冷や水のようで、浴びて雲太はどきり、胸を鳴らした。
「つくしの成すべきことは、雲太さの嫁でおることです。ほかには、ほかに何もありません」
 つくしは言い、雲太は下げていた頭をおずおず上げてゆく。ならそこでつくしは、真っ黒な瞳に溢れんばかりの涙をためて前を見ていた。いいえ、とこぼし、力の限りに声を張る。
「雲太さがつくしを助けたのです。成すべきことを成すのなら、雲太さこそ、つくしを放って行ってはならんのですっ!」

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