さらば三兄弟 の巻
83


 その目から、ついに涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
「野の者に尽くすとおっしゃるのに、どうしてつくしには尽くして下さらんのですか? つくしはめしいておるから、野のものではないせいですか? どれだけ銭があっても、雲太さだって取り替えっこはできぬのです。取り替えっこの出来ぬつくしの幸せなのですっ。なのにつくしから取り上げるなんて。あんまりです。また一人ぼっちにするくらいなら、助けてなんぞくれなければ、くれなければよかったのです……」
 それきり声は消え入ってしまい、つくしはわぁっ、と泣きだした。
 見つめて雲太は立ち尽くす。
 どうしてやることもできず、天浮橋より眺めて京三らも眉をへこませた。
 その面持がまた雲太を責める。たまらず雲太は伸び上がっていた。
「よ、ようしッ、分かったッ。つくしを一人にはせんッ。こたびはここを離れるが、わしは必ず帰って来るッ。約束したならつくしはわしを、見送れるかッ?」
 そうしてつくしの返事を待つ。
 前でつくしは、いっとき泣きやんでみせた。閉じていたまぶたをうっすら開き、出来るだろうかと吟味する。だがそれこそ困り果てた雲太の嘘だと気づくにもう、時間はかからなかった。またぎゅっ、と目を閉じると、いやだ、という代わりに抱えた荷へ深く顔を埋めてしまう。見ておれば、伸びあがったはずの雲太の体も元通りとしぼんでゆくしかなくなっていた。
「つくし、わしを困らせんでくれ」
 ついぞ口から、ため息はもれ出す。
「ゆかんと野がどうなるか、わからんのだ。美しく富める豊かな国があればこそ、幸せになれるのだぞ。わしはお前も、みなが、そうあるよう願ってやまん」
 責められようともつくしは答えず、ただぎゅっと荷を抱きしめ返していた。
「……雲太さは」
 やがてその奥から、かすかと雲太へ呼びかける。
「雲太さは、なら送れるよう、つくしを抱きしめて下さいますか?」
 言い分に雲太の眉は跳ね上がるが、驚くにはあたいしない。すぐにも不憫と眉をへこませていた。だからして、その身へ両手を伸ばしてゆく。
「うまいこと、いかんのう」
 抱える荷ごとだ。つくしを抱きしめ雲太はこぼした。そこでほうっ、と力を抜いてゆくつくしを感じ取る。ならそれは、続きのような口ぶりだった。つくしは雲太へ問いかける。
「雲太さは、つくしの内緒ごとを、覚えておられますか?」
「うむ。小魚を食らいながら、そんな話をしたな」
 思い起こして答えたなら、やがてつくしはこんな話を雲太へ始めていた。
「めしいたつくしは、みなと仕事が出来ません。そんなつくしは役立たずで、村の嫌われ者でした。だからお昼間、嫌われ者は、村のはずれへ向かいます。なぜならそこに大きな木は立っていて、いつもつくしに優しくしてくれるからです。木は、一日中でも一緒にいさせてくれます。根元でお日様に顔をさらしたなら、すうっと心も軽くなって、つくしはちっとも悪者ではなくなるのです。だからつくしはその木が大好きでした。けれど木は大きすぎて、あの日、嵐に倒れました。嫌われ者のつくしのおれるところはなくなって、つくしは村を出ることにを決めました。……そして雲太さに、出会ったのです」
 またほうっ、と息をつく。
「助けられたから、嫁になると決めたのではないのですよ。雲太さは、その木と同じ匂いがいたします。つくしを心の底からほっとさせてくれる、気配がするのです。ずっと大好きで、つくしのなくしたものの、探しておった場所の、気配がするのです。でも、木が生まれ変わってつくしの前に現れたなどと思うのは、雲太さだって笑うにちがいない、つくしだけの内緒ごと」
 とたん雲太の身の内で何かはうずく。
 それは木切れか、ただの心か。だがその正体こそ、雲太に知る術はない。うむむ、と唸って雲太は返し、それきりつくしの語りも途切れてしまった。代わりに寄せられていた身が離れてゆく。やがて見えぬ瞳が重たげと、雲太を見上げて持ち上げられていった。
「けれど、大好きな匂いがたくさん吸い込めたから、かまいません」
 つくしはもう、泣いていない。
「お見送り、しないと。嫁が旦那様を困らせては、ならぬことです」
 ただ微笑む。そこに罪はなく、見れば見るほど作らせた雲太の方が、さいなまれていた。
 須勢理姫が見送りに駆けつけたのはその時で、鳴り響く足音が忘れていた時を動かし始める。
 雲太は我に返り、なにとぞ、と須勢理姫へつくしを押しやった。顔を見てやれぬまま、きびすを返す。ただ天浮橋だけを睨みつけ、蹴り出す足で飛び乗った。早いか声を張り上げる。
「ようし天浮橋よ、山までひとっ飛び、頼んだぞッ」
 応えてむわわ、と膨れ上がった天浮橋の尻はどうやらそちららしい。見守る須勢理姫とつくしへ向け、しゅううっ、と煙を、いやそれこそ雲か、吐き出し白い体を滑らせ始める。
「雲太さぁっ!」 
 気配に、叫ぶつくしが身を乗り出していた。
 足らずそのとき、須勢理姫の傍らから抜け出す。
 足を天浮橋へ、吐き出す音めがけて一直線と繰り出した。
 様子に雲太が、天浮橋に乗っていたみなが振り返ったことはいうまでもない。そうして目にしたつくしの足取りは、今にも転んでしまいそうで危なげだ。抱え切れなくなった荷もぼろぼろ、その手からこぼれ落ちてゆく。
「つくしッ」
 見ておれず、雲太もその名を呼んでいた。
 と、その時だ。
めがけてつくしは伸び上がる。残るすべての荷を振りまくと、えいやで天浮橋の尻尾を掴んでみせた。
 光景に、誰もの尻は、あっ、と浮く。そして誰より驚いたのが天浮橋であったなら、尻尾を踏まれた猫がごとく一気に空へと駆け上がっていった。おかげでまたもや、つくしの体は宙ぶらりんだ。
「ああっ、雲太さの大事なご褒美がっ!」
 放りだしたマソホの布を惜しんでつくしは叫ぶ。だが、もうそれどころではない。
「布など、かまわんッ」
 命の屋敷は、早くもつくしの足先で赤い点と姿を変えていた。それきり掴め、離すな、雲太らは急ぎつくしの体を手繰り寄せにかかる。どうにかこうにか天浮橋の上へ引き上げた。
 五人になったそこはずいぶん狭い。だが危なかった、危なかった、と繰り返す命はご機嫌そのもので、和二と京三も胸をなでおろし笑い合っている。お前というやつは、と雲太だけがつくしを叱りつけ、落ちてはいかんから、とつくしに袂を掴ませるのだった。
「どうしてもついてくるつもりであるのなら、この先、怖いと怯えてはならんぞ」
 言い聞かせたなら、こくり、つくしはうなずき返す。落ちぬようにとその肩を、雲太は抱き寄せ進む先へと視線を投げた。
 そこから風は冷たく吹きつけてくる。
 切る音がばばば、と耳へ絡みついていた。
 そんな空をいくらも飛べば、やがて混じって地鳴りの音は響き始める。
 なにごとか、と誰もが天浮橋の上で四つん這いになっていた。のぞき込んだ足元で、揺れ動く地を目の当たりとする。


 だからして高天原で天照はいぶかる。
「これが、どうして」
 ふん、ふん、気張り、いつもとおりに野を照らそうとするものの、何がどうしたのか、いくら頑張っても蹴散らせない黒雲に手を焼いていた。
「いやだ、ばっちい。しかも……」
 呟いて、おや、とその目を細めてゆく。詰めた眉間を今度は広げ、さらによく見んと眼下をのぞいた。なら蹴散らせぬ黒雲はあろうことか、そこでずんずん大きくなっている。広がれば広がるほど黒さは増し、やがて黒いどころか光を吸い込む穴を野へうがってみせた。
 たちまち天照の肌に、ぞぞぞ、と泡は吹く。こめかみは吊り上がり、一体何が、と言葉はもれた。
「天照っ!」
 呼び止めてその時、 活津日子 命(イクツヒコネノミコト)は転がり込んできていた。
「我らの手には負えぬことありて、天照へご相談に参った次第!」
 隣へすかさず海の神、 大綿津見神(オホワタツミ)も並ぶ。
「黒雲をご覧になられたか。あれは野のものにあらず。我らが手の内に従いませぬ!」
「せっかく緑に耕しましたのに、そのうねを崩すやからが!」
 立て続け、眉をへこませた農業の神、和久産巣日神(ワクムスビ)も参じて申し立てた。
 それら最後、駆けつけたのは神を逆立てた嵐の神、素戔嗚である。
「このままでは高天原の手より野は離れますぞ! それもこれもまさかあれが?」
 祓いに天下ったからこそ、過る予感のまま天照へ眉間を詰めていった。
 見ればいつしか黒雲を持て余した天津神らは数多、天照の元へ押し寄せている。その顔はどれも疲れ切ったうえに不安げで、思い当ればこそ、天照のつるり照っていた頬もまた削げていった。
「素戔嗚の言うとおり、おそらくあの黒雲こそが、祀られず荒魂となった大国主命の幸魂、奇魂の仕業であろうかと」
 やおら周囲から、どよめきは起こる。
「なにしろほかにこのようなことを成せる国津神が、思いつきませぬ」
 言って天照はもう一度、足元の黒雲を確かめた。結んだ唇をほどき、みなを見回す。
「祓い、鎮めねば、野は元の泥に還る恐れありっ!」
 とたんどよめきは悲鳴へ変わり、手塩にかけて育んだ野だからこそ、そんな、と嘆く声に、大役を仰せつかった造化三神がなんとお怒りになられるやら、恐れる声は入り混じって相次ぎ上がる。
「落ち着きなさいっ! 野はこの高天原が守り切るのですっ!」
 一喝する天照に、ためらいはなかった。
「即刻、野へ降りる準備をっ! 戦と覚悟し、兵を整え、みな出陣を待ちやれっ!」
 袂を振る。
 成り行きに高天原は揺れ動いた。高天原始まって以来の一大事だ、さあさあ、と険しい面持ちで散ってゆく。
 背に天照は、再び野をのぞき込んだ。任せたはずの木偶らは、烏はどこかと探す。すると羽音はその背へ、ちょうどと覆いかぶさっていた。
「大っ変で、ございますっ!」
 ばさばさ、はあはあ、烏はそこに舞い降りる。  

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