さらば三兄弟 の巻
85


「つまり、これですね」
 ぱしり、掴んだ天照の手が音を立てる。
 いわずもがなそこに野より撃ち上げられた祈請は、あった。
 烏は、は、と短く答えて頭を垂れ、物々しくも戦支度を整えた神々は、ことさら周りでざわめきを大きくしてゆく。
「先に木偶らを差し向けるとは、さすが八咫。気が利きますよ」
 祈請の詳細へ目を通しつつ天照はこぼし、もったいないお言葉、と烏はなお頭を低くしていった。それこそ謙遜であったなら、天照は祈請から上げた顔で、ふ、と烏へ笑いかける。応えて烏も、微笑み返した。
 だが和むにはまだ早い。天照はそこで頬を引き締める。高天原を統括する天津神の威厳はその目に、らんらんと宿っていた。
「影は大国主命の幸魂、奇魂が荒魂となったもので間違いなしっ! 国津神らを束ねて祟らんと荒ぶっておるとのことっ! 野より、その祓いを求める祈請はよこされましたっ!」
 告げる声に恐れはなく、ただまわりでごくり、事態に生唾を飲み込む間合いは満ちる。
「ならば天津神も全勢力を上げ、野を鎮めに向かう所存。用意はよいかっ! いざ鈴の音へ参られよっ! そこで荒魂をひとつ残らず祓い、芦原の野を美しく富める豊かな野を、我らのものと取り戻すのじゃぁっ!」
 奮い立たせて天照は、行く先を強く指し示した。握りしめた祈請を高く突き上げたなら、天照の頬はつるり照って、高天原全体から応えておう、と野太い声は上がる。
 これはたのもしい。見回し烏も嘴をゆるめた。
 前で天津神らは次々と、その身を野へ投じてゆく。追って数え切れぬほどの兵士もまた、連なり野へと飛び込んでいった。軌跡がはたちまち光となって長く尾を引く。引いて、遥か足元に浮かぶ星と高天原をつないでみせた。それは流れ星が大群となって注ぎ込まれてゆくかのような、まこと壮大な光景となる。
 これは凄い。
 見回して烏は目を丸くし、かあ、と鳴きかける。
 押し止まっていた。
 いや、思うように声は出ず、喉をつまらせる。その妙なあんばいに、おや、と我が身を探っていった。すっかりでなくなってしまったらしいことに焦ったなら、気張ってまで出した声は聞いたこともないものとなる。
「我、天下らせし、天照へ申し立てる……」
 しかもそれは、思ってもいない言葉であった。驚き烏は翼で嘴を押さえつける。
 耳にした天照が、いぶかしげと振り返っていた。


「捕まって下さぁいっ!」
 天浮橋の上、つくしが精一杯の声で促す。
「なんとっ?」
 命はうわずり、つくしは天浮橋をこれでもかと握りしめた。
 三度どころか京三の振った鈴は今や、鳴りやむ様子にない。両手で押さえつけねば飛んでゆきそうなほど、柄頭の中で暴れ回っていた。
「どうなってっ!」
 と、止まっていた雨粒が走り出す。空滑る天浮橋をめざし、いや乗る雲太と和二の手を目指し、空を真横へ流れ飛んだ。ならそれはもう、じう、と滅するにあり余る数だ。より合い、あっという間に濁流となって、だぱん、雲太と和二の手へぶち当る。
 食らった二人の足が天浮橋の上を滑った。堪えてうおお、と声は上がり、滑る体を押し止めて天浮橋が咄嗟に空で身を立てる。だからして掴んでおらねば振り落されていたであろう。きゃあ、とつくしは叫び声を上げ、それきり天浮橋は流れに殴りつけられたかのごとく、空を彼方へ吹き飛んでいった。
 黒雲、渦巻く嵐の中へぼうん、と飛び込む。
 突き抜けどこぞへ飛び出した。
 それは見知らぬ遠い浜辺だ。
 落ちた衝撃に白い砂は吹き上がる。それでも止まらずえぐって滑り、天浮橋は埋もれてようやく渚で止まった。その周りで最後の雨粒がむわん、白くけぶって消え去る。
 どどん。
 打ち寄せる波がひどく重たげだった。
 傍らで、狂ったように鈴は今だ鳴り続ける。握りしめて京三は、いつからか固く閉じていた目を開いていった。
「つくし殿っ! 命っ!」
 剣を投げ捨てるが早いか、天浮橋の上で伏せたきり、動かぬ二人へ駆け寄ってゆく。その背へ雲太の声は、投げつけられた。
「来るぞ、離れろぉッ、京三ッ」
 はっと振り返った京三の目に、穴を引き連れ押し迫る黒雲の壁は映り込む。崩れる野の端から無数の荒魂も見え隠れすると、オロチとなり、ムカデとなって、無数と野へ這い上がろうとしていた。
 睨み、唇を噛みしめ京三は、つくしと命を抱え起こす。
「こちらです、早くっ!」
 にわかに目を覚ました二人はその手を握り返し、互いは互いを支え合うと、えい、と天浮橋から飛び降りた。砂に足を取られて転げれば、やおら頭上を、高天原とを通して風は吹き抜けてゆく。その勢いはかつてないほど強かった。京三らの衣は千切れそうにはためき、ジャンジャン鳴り続けていた剣はさらわれ、舞い上がったかと思うとさくり、浜に突き立つ。
 ままに風は、黒雲へ体当った。だが風穴を開けることはかなわない。跡形もなく散ってしまう。
 なら入れ替わりであった。雲太と和二の足へ、そのとき重みはのしかかる。大きさに天浮橋は踏み潰され、砂浜さえもがごぼり、窪んだ。堪えて二人は、うぐぐ、と唸り、やがてその手にぽう、と光は明けく灯る。見る間に膨れて雲太らさえをも、真白と包み込んでいった。それはそこに日が降りてきたのかと思うほどに眩く、見えぬからこそ見定めたつくしが必ずお戻りを、と叫ぶ。見ておれぬ京三と命はただ光を遮り手をかざし、堪えて目を細めたところでひゅっ、と光は縮んで消えた。
 やおら、だああっ、と吠えたのは、雲太に和二だ。
 その手から、鳥居から、塩は飛沫と飛び散る。
 もろとも神は刃物のごとし鋭さで、しゅうっ、と風切り現れ出でた。
 勢いに窪みから白く砂が舞い上がる。寄せる波もまた泡立ち飛んだ。 だがそれきりではない。止まることなく二人の手からは、建御雷が、素戔嗚が、軻遇突智命が、瓊瓊杵尊に、獅子に龍に剣が、いや、まだ足りんと無数の兵士さえもが、次から次へ飛び出してゆく。
 おかげであっという間のことであった。空は、ここが高天原か、と見間違えるほどの天津神らで埋め尽くされてゆく。
 這い上がってきた荒魂らが、そんな空へとアゴを上げていた。そのうちのいくらかは雲太らを目指して浜を滑り、いくらかは蛾へ姿を変え、黒竜と連なり、空へ飛び上がってゆく。絶えることなく兵士を吹き出し続ける雲太らへ、守らんとする天津神らへ、襲いかかっていった。
 様子に雨足は強まり、稲光に炎が空を駆け巡る。おかげで闇にすすと光は舞い上がり、ついえて果てれば野を明け渡す決戦は、空を覆ってゆくのだった。


「今、なんと?」
 天照はそうして烏へ首をかしげる。だが問われたところで、烏にこそわけがわからない。見つめ返してただぷるぷる、首を振った。はしからまたあの声は、嘴を割る。
「恥ずかしめを……」
 慌てて烏は押さえつけるが、もう止まりはしなかった。
「忘れまじ」
 聞いた天照の眉がぴくり、うごめく。やおら鼻先は烏へ突き出され、ひくひく動かし天照は言った。
「……くしゃい」
 ようやくまさか、と過ったのは烏だ。なおぶんぶん、頭を振り返す。慌てぶりを天照は、ゆっくり反り返らせた胸の上から見下ろし言った。
「……そなた、八咫ではありませんね」
 声が、みなの出払った高天原にしん、と響く。
 烏は目を潤ませ、裏腹とその時、烏の背から一筋の煙は立ち昇った。振り返った烏の体は跳ね上がる。熱いもなにもありはしない。それもこれも鳩に吹き付けられた火種だ。再び祟りをたぎらせると、燃えだそうとしていた。様子にぎゃあ、と烏は飛び跳ね、あれほど清めたはずなのに、血眼で翼を振る。だが消しとめようにも届かない。うちにも煙の底から炎は立った。
「我は、大国主命の幸魂、奇魂なり。八百万、国津神を束ねて国造る命あらば、すなわち国津神を束ね祟りて、芦原の野を治めん」
 嘴もまた勝手と動き、声を放つ。
「しくじりましたね、八咫」
 天照の眉間に小さくしわは立ち、胸のつぶれる思いで聞いて烏は、かあ、と声を上げた。
 それが最後だ。両の翼へぶわ、と炎は燃え広がる。止まることなく、あっという間に尻尾の先までを炎で覆いつくしていった。黒かった目は真っ白に裏返り、劫火、燃え盛る火の鳥と化して、烏は黒々とすすをなびかせついに天照へこう、吐きつける。
「野を我がものにせんがため、天、馳せりっ!」
 炎に包まれた翼はもう、倍ほどの大きさになっていた。
「しかとその目で見届けるがよい。国中之柱を倒して底を抜き、高天原などなきもとしてくれようぞっ!」
 広げて見せつけ叩きつけると、祟る熱風を天照へ送り込む。もろとも、ばさ、と宙へ飛び上がった。

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