さらば三兄弟 の巻
86


「たっ、たわけたことを申すなっ!」  降りかかる穢れを払って、袂をかざす。天照は悪臭に喉を詰まらせ吐き返した。出あえ、と声を張り上げかけ、はたと気づいて押し止まる。なにしろみなすでに野へ降りていた。もう高天原には一柱もおらず、それを知っての口上か、と天照は奥歯をぎりり鳴らす。鳴らして意を固めた。かざすその手で、重ね衣の襟を掴む。早いか、力任せと振り払った。ばさばさひるがえる衣は心地よいほどするり、天照の身から剥がれ落ち、下から矢羽を背負った勇ましき戦姿は現れる。  なんの、備えのよさは素戔嗚が母、恋しと野を荒らし、担当の配置換えを訴えて高天原へ参じた時からだ。その時も天照はこの段取りで、戦姿になると素戔嗚を出迎えていたのであった。  加えて、放り出された衣も弓と絞れる。手の中へ落ちてきたそれを、天照は握りしめた。すぐさまつがえたなら、その瞳に鳥の姿は朱く灯る。 「ええい、そうはさせぬぞっ!」  気合もろとも矢を放った。  ひょん、としなって矢が走る。  熱風、逆巻き、鳥は身をひるがえしてみせた。 「は、愚かなりし天照っ!」  鳴いて振り返ったその顔に、薄い笑みは浮かぶ。ひとたび燃えたぎる翼をはためかせ、高天原を彼方へと飛んだ。 「まちやれっ!」  などと、鳥が飛び去った方向こそ、国中之柱が立っておる所だ。倒しに向かったか。過れば天照の手も振り上がる。見て取り息せき切って駆けつけたのは、天浮橋であった。ところが飛び込んできたその姿は、どんよりねずみ色と冴えない。 「うう、くしゃいっ!」  それもこれも黒雲、広がる空のせいであった。ついに天浮橋へも、穢れは蔓延しようとしている。 「こんなものに乗れますかっ!」  一喝すれば、食らった天浮橋も、所在なさげともぞもぞした。だからして動くな、と叱りつけ、天照はくわ、と開いた両目で天浮橋を睨みつける。この程度ならまだ容易い。あまねく野を照らす光で、隅から隅まで祓い清めていった。んくん匂って成果を確かめ、いざ、天浮橋へ飛び乗る。 「国中之柱へむかうつもりぞ。逃すな、鳥を追えっ!」  鳥は早くも火の玉と縮んでいた。  それいけ、と天照も天浮橋を滑らせる。まき散らされたすすを払い、追いかけ次々、矢を放った。だがこれが思うように当たらない。うちにも、敷き詰められた雲から突き出る国中之柱は見えてくる。目指して鳥は一直線と飛び、すれ違いざま突き出した三本の足で国中之柱を掴んでみせた。持ち去らんと翼を大きくはためかせる。  もちろん野と高天原をつなぐ柱だ。鳥ごときが持ち去るなどできはしない。だが柱が立てられてから経つ年月は生半可でなかった。やおら頼りなく、柱はぐらり、ぐらぐら、揺れ始める。 「こ、こらっ、そのばっちい足をお離しなさいっ!」  天照は吠え、鳥は聞かずに揺すりに揺すった。  最後、柱を蹴って宙へ舞い上がる。  くるり翻した身で勢いをつけ、つんざくような鳴き声と共に柱へ向かい体当った。  火の粉がぱぁっ、と空へ舞い散る。  それはみごと芯をとらえた一撃だった。  柱もごうん、と音を鳴らす。  それきりであった。揺れず柱は傾いてゆく。そんな柱へ散った火の粉は燃え移り、寄りかかる柱の重みに、囲い敷き詰められていた雲がぼう、と割れ飛んでいった。柱はまさに、嘆く天照の前でぴしぱし雷光、瞬かせつつ、野へとゆったり倒れ始める。  だがしかし、野にそんな高天原を見上げるひまはない。  天下りし建御雷は剣を振るい、龍を駆って稲妻を走らせ、群がる荒魂を薙ぎ払い続けていた。なら嵐を巻きつけ素戔嗚は縦横無尽と空を飛び、面白いように黒雲を蹴散らしてゆく。傍らで軻遇突智命も火球となると空を巡り、祟りの波を突き破り続けた。見守る瓊瓊杵尊は、崩れゆく地へ種を吹き、芽吹いた緑で雲太らの周りを繋ぎ止める。それもこれもを毟りとろうとする荒魂が底から這いあがったなら、今度は獅子が牙を立て、祓い落とした。ほかにも甲冑姿の兵士らが星の数と散らばって、くんずほぐれつ荒魂となりし国津神らと剣を交えている。  そうして祓われた魂が、破れた兵士が、らはらはら空から野へ降った。千切れた黒雲は血潮とすすを飛び散らせ、壁を網へ変えてゆく。  しかしながら地の唸りは止まず、かばい切れぬところで穴は広がり、這い出る荒魂についえる様子はなかった。だからして雲太と和二の手から飛び出す兵士にも途切れる様子はなく、支え続ける雲太と和二の額に汗は玉と浮きあがる。  その足が、油断するたび砂浜をえぐってずず、と後ろへ滑っていった。ままにうっかり転んでしまえば、どこまで吹き飛ばされるやら分かったものではない。そして神らは出るに出られず、応援の途切れた天津神らが苦戦を強いられることは明らかだった。  させてはなるまい。  雲太らも必死の思いで踏んばり続ける。 「和二ッ、大丈夫かぁッ」  雲太は和二へ呼びかけた。だが和二の返事は、むううっ、とうなったきりで気が気でない。ついぞ雲太はちらり、和二の様子を盗み見る。とたんその眉を跳ね上げた。 「和二ッ。おっ、お前、体がッ」  言われて空から目を落とした和二が、びくり、震える。 「わあぁっ! すっ、すけすけなのだぁっ!」  おかげで足元はふらつき、雲太は危ない、と和二を怒鳴りつけた。あわわ、と踏ん張りなおした和二は懸命だ。などと言った雲太の体も、たがわずうっすら透け始めている。 「わ、わしもかッ」  気づかされて雲太は己が体に目を見張った。  などと、わけは容易い。 「これほどまで天津神らを結んだせい……」  見て取り京三は呟く。 「身の塩が尽きはじめたんだ……」  このままでは消えてしまうかもしれない。 「雲太ぁっ、和二ぃっ!」  思いは過り、立ち上がって二人を呼んだ。すかさず辺りへ目をやり、そうだ、とこぼすが早いか京三は背負う荷へ手をかける。 「つくし殿、つくし殿は、何が起きているのか、見えておられますか?」  手早く解きながら、つくしへ問うた。 「はい。戦です。お空から、地の底から、お姿が次々と」  答えたつくしは、そこでぐ、と唇を噛んでいた。 「何か、雲太さの身に何かあったのですか」  察しの良さは、あんぐり口を開いた大国主命とは雲泥の差だ。京三は、解いた荷の中身を浜へ撒き、教える。 「そうです。雲太と和二は戦を支えて奮闘しておりますが、その身が尽きるやもしれません」 「尽きる?」  つくしは繰り返し、聞いた命がはっ、と空から視線を戻した。 「それはまことか?」 「このままではおそらく。尽きればわたしたちの負け戦。野は二度と、人の住めるところにはならぬでしょう。そのためにも塩が必要です。海の水を、二人へかけます。手伝っていただけますか?」  布だけを手に京三は、呼びかけた。つくしでもお役に立てるなら、もちろんだ、たちまち声は双方から返され、三人は布の端を握り波打ち際へ駆け出す。  そこで波は荒く打ちつけ、かぶり、三人は広げた布でどうにか海水をすくいあげた。浜へ引き返し、砂に足を取られながら声をそろえて雲太らのところへ運んでゆく。こぼれる海水はあっという間半分に減ってしまっていたが、それでも揺すっていちにのさん、で振りまいた。  鳥居よりいずる神らの勢いに、海水が雲太らまで届くことはない。だが宙で滅して霧がごとく、そこに白く塩は吹いていた。しかしまるで足りない。あっという間に消え去ると、ただ二人の影だけがまた薄くなる。  目の当たりにして京三は青ざめた。だが雲太らを海まで歩かせることこそ、叶わない。再びつくしと命を引き連れ、波の中へざぶざぶ飛び込む。すくい、戻って、半分ほどに減った海水を投げ打った。  誰もがはあはあ、荒い息を繰り返していた。  だが焼け石に水とはこのことか。あまりにあっけない。  そのうちにもうがつ穴は海へせり出し、その端を滝に変え、海水を飲みんでいった。次に向かう水際はどんどん遠ざかり、ああ、と京三は目を泳がせる。  と、ついにそこで塩はついえた。  身の丈が小さいなら、塩も少なくて当然だ。  和二の声が、わぁ、と響く。  最期にして、ばさり、衣は砂へ落ちていた。  申し訳なさげと襟足に、木切れは顔をのぞかせる。  

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