勢いに任せて踏み込む。
かすれた音で居住モジュールのドアがスライドしたなら、それはやおらアルトへ飛んでいた。
『入ってこないで！』
ワソランだ。
素直に押し戻されて、一歩後退。
今回に限っては挟まれることなく、ドアはアルトの前で静々と閉まってゆく。
完全な気合い負けだった。
「……って、そこ俺の部屋だろうが」
つくづく実感しながら、アルトはドアへこぼす。気を取り直し、ついでに落ち着きも取り戻した。
そうしてそれがどういう方法であるかは不明だが、ワソランをなるべく刺激しないようドアをスライドさせる。無論、そんな小細工とは無関係と機械仕掛けのドアは開き、しかしながら用心を極め、アルトそっと中をのぞきこんだ。
迎撃してヒステリックな声が、そんな鼓膜を撃ち抜くことはない。ただ床にうずくまったワソランが、マットレスへ伏せていた。その背中は微動だにせず、むしろ動かないことでじっと何かを耐えているかのような雰囲気を漂わせる。
視界の端で確認しながら、ここは入室の許可が降りたらしいと、アルトはひとまず、もとよりそれが目的だといわんばかり調理台へと足を繰り出して行った。電磁調理器脇にクリップで束ねていたパックペットをひとつ取り出し、キャップを外していつもの手つきで、蛇口へ差し込みコックをひねる。真空だったパックはそこへ水を適量、吸い込み始め、薄い紙切れのようだったそれはあっという間に膨れあがっていった。流れ込んでいた水の動きが止まったなら、アルトは再びパックを蛇口から引き抜く。キャップをかぶせ、本体へ押し込んだ。キャップに収納されていたストローが同時に、パックの中へ落ちる。そんなパックの口には弁がついており、たとえキャップをする前に倒したとしても、こぼれ出す心配のない構造だ。そうしてキャップ上部を弾けば、飲み口が飛び出していた。
チェイサーの船へ乗り込む前に済ませるハズだった段取りも、えらく前後したものだ。喉を鳴らして吸い込む。水は乾いて焼けた全身へ染み渡り、ほどなくアルトの胃の腑を潤していった。それこそ溺れる寸前だ。口を離し、パックを背後の調理台へ置く。ひとつ大きく吐き出した息で、続く沈黙を平たく眺めた。
持て余し、寄りかかった台へ軽く腰を預ける。
そう、ここから先こそが、本当の地雷原なのだ。
『よぅ』
ワソランへ呼びかけた。
『ヒトのミールパックは、食えるのか？』
当然とというべきか、呼びかけられたワソランに返事はない。
動きもまた、だ。
待つこともなく、アルトは身を反転させて電熱コイルの一口コンロ隣、蛇口とは反対側に設置されたストック棚へ手をかける。
『とりあえず、メシだ。メシ』
歌うように繰り返した。
『ハラ減ってると、ロクな考えが浮かばないからな』
まるで書籍が並んでいるかのようなパックの背を、指と目で追ってゆく。
『あった、ソイスープ。俺はこいつだな。そっちは何がハラに合うのかわからねーから、粥にでもしとくか？』
と、ようやくの声。だが、それは問いに対する返事ではなかった。
『今頃きっと、転売されてるんでしょ。手も足も、臓器もみんな……』
アルトは手を止め、苦い顔で振り返る。
ワソランは動かない。
『あとかたもなく、バラバラ』
確かにあのチェイサーが言いかけていたのは、そんなくだりだ。そしておそらく売り物を狩っていた船賊が乗組員まで連れ出したというのなら、一般的な成り行きはその辺りが妥当となる。アルトは黙って取り出した二つのミールパックを、水と並べた。答える前に体ごとワソランへ向き直る。再び調理台へ寄りかかり、両腕を体の前で絡ませ組んだ。もはや歌うようになど話せない。
『先に知らせておいてやるよ』
言う。
『あんたの彼氏があのチェイサーと見つけた石、あったぜ』
聞いたワソランの頭が不意に、しかしながらゆっくりと持ち上がっていった。
『どうやら俺の回収したブツの中に紛れ込んでいたらしい。さっき連絡が入ったところだ』
しかしながら相変わらず背を向けたままのワソランから、表情の一切を見て取ることはできなかった。ただ覇気のない首筋は虚空を睨み、一言一句を漏らさず聞き取ろうとしてか、研ぎ澄まされた緊張を放っている。
『あのギルド店舗だ。誰にも渡すなと言っておいた。形見に……』
言いかけて言葉を切っていた。
『形見に、このまま持って帰りな。どう転んでもあれはあんたのモノだ』
だが『ｉｐｓ』で聞いた通り、彼女にとって石は全ての元凶ですらあれ、どれほどの価値があろうとも待ち望んでいたそれそのものではない。そして持ち帰ることを承諾すれば、同時に彼の「死」もまた認めたことになるなら、返事こそそうやすやすと返って来るはずがなかった。
アルトの視界の中で、やがて石のようだったワソランの背中は壁に描かれた風景と薄っぺらにかすんでゆく。呼び戻して仕方なく、いや、その表現が妥当であるかどうかは定かでないが、アルトは付け足し言うことにしていた。
『それとも、まだ本当にあんたの彼氏は転売されちまったのか、確かめたわけでもないんだぜ』
それはイチかバチかの賭けだ。
『一般的な流れで言えばそうなるって、曖昧なハナシをしただけにすぎない』
イルサリと会話を交わしながら宙を見上げてぼんやり考えていたことは、単なる余計なお世話であるかの性も否めない。
『本当にそうなのか確かめてみる、って手もある』
それでも言い切れば、しばらくの間はあいていた。
経て、ワソランの背がネジを巻き上げるようにアルトへ振り返る。あれほど鋭く威圧的だった目はそこで歪に腫れると、打たれた子供のように怯えてチラリ、アルトをとらえていた。
アルトはただその奥にあるはずのあの強気な瞳を捜しだす。
『どちらに決めるかは、あんた次第だ、ワソラン』
ゆだねて問うた。だがその目は息を吹き返すどころか、逃げてマットレスへ落とされる。なくした余裕にその頬は神経質なほども強張っていた。即答などできやしないなら、アルトは煮詰まりつつあった空気を冷ましてそこで身を翻す。
『まぁ、食ってからでも全然かまわねぇハナシだ』
中途半端に放り出していた、ミールパックの温めに取り掛かった。
『ビル～の、ハイウェイに、ガオ～。夜の街に、ガオ～』
飛び出す歌は、いつぞや同じ場所で二十八番のミールパックを温めていたネオンが口にしていたアレだ。だがアルトはその二小節しか覚えていない。だからして恥ずかしげもなくひたすらに、同じフレーズを繰り返してパックの二箇所へ穴を開ける。二つまとめて電磁調理器へ放り込んだ。
覗き込んでいれば、チンと音が鳴るその前だ。ワソランの声はその背へ覆いかぶさってくる。
『確かめるって、どうやって？』
『船賊に、まんざらでもない知り合いがいる』
歌の続きのように言っていた。
聞いてわずか傾いたワソランの顔が、険しさを増したことは言うまでもない。
『船賊つったって、星の数ほどいる。あいつらは信用できるぜ。そいつらの手をちょいと借りるのさ』
電磁調理器が実に軽薄な音を立てていた。ミールパックはその中で、空けた穴から美味そうな湯気をあげている。つまんで取り出し、アルトは大急ぎで傍らの丸テーブルへ運んだ。相変わらず据付の悪いテーブルは傾いだままだ。
『アッチ、ってぇっち』
意味不明の声と共に、二皿目も移動させる。封を切ればとたん濃厚な食べ物の匂いは解き放たれて、閉ざされた空間を満たしていった。
『なんでもいいから、ハラ、入れとけ。でないと、頭に血もまわんねーぞ』
『いらない』
『そりゃ、レンデム用のミールパックはないけどな。贅沢言うなよ。勝手に乗り込んできたのはそっちの方だ』
と、横目にアルトを捉えていたワソランの視線は再び、マットレスに乗せられた自らの拳へ引き戻される。
『あなたらな。どうする？』
ボソリと吐き出していた。
『あ？』
先だっての揺れであらぬ方向へ転がっていた三つ足の椅子を引き寄せアルトは、腰を落とす。濃い茶色の液体の中でゆったり渦巻く具に両手を合わせてから、その顔を上げた。
『あなたなら、どちらにするか聞かせて。何者にも代えられない大事なひとの行く末を、それが最悪を孕んでいると知っていても、自ら進んで確かめられる？ それとも別の可能性をその間際まで信じられる？ 万が一、耐えられない結末を突きつけられたとして、後悔せずにいられる？』
話せば話すほどに芯を取り戻してゆくワソランの声は、次第に本来の姿へ戻りつつある。
『そう、言ってたわね、ｉｐｓって店で。現実は、それっぽっちの情念で曲がりはしない。曲げようとするわたしは、たいそうなご身分だとも。違うわ。あなたにはその怖さが分からないだけなのよ。これまでたった一人だって、あなたにそんなヒトは存在しなかったから。失くして恐怖を覚える誰かなんて、別世界のあなたには存在しなかったからよ』
言い放つや否や、力任せと分厚いまぶたをこすってみせた。そうして無理やりにでもこじ開けたワソランは、精一杯にアルトを睨みつける。
『おい、ヒトを冷血漢扱いってのは、過ぎるんじゃねぇか。証拠に、ここへくるのに譲歩したのは俺だぜ。それに俺にも……、』
なくして恐怖を覚える誰かはちゃんと存在する。
確かにアルトはそう言いかけていた。
だからこそ、そこで言葉をのむ。
瞬間、そんなアルトの脳裏を、つい先ほどまで爪の先にも思い出すことのなかった顔は横切っていたからだ。だというのに、まるで出番を待っていたかのようにネオンはそこで笑ってみせる。
思えばあの時、アルトの中に渦巻いていたのはその恐怖、それだけだったろう。自らの消滅にさえつながるものだと、尋常な感覚さえ麻痺さえさせる恐怖だった。だからこそあれほど大胆な行為に打って出ることができ、最後まであがらい続けることができたのだと思っている。しかしそれが今、投げかけられたワソランの問いへの答えとして浮かんだのなら、その恐怖の引き金を引いたものは、ほかでもない。
新たな言語の習得は、新たな概念の獲得だろう。
耳慣れたが肌慣れぬ、それは言葉だった。
いや、だからこそ、これはちょっとした言葉遊びだと、アルトは飲み込んだままの息を吐き出し我を取り戻す。
途切れた言葉の先をつむぎ出していった。
『何と思おうが勝手さ。だが、俺なら確かめにいくね。相手を失うのは自分だけじゃない。お互い様さ。なら、同じ恐怖を味わうのも悪くない。その事実から、てめぇだけが逃げおおせようってのは性に合わないね』
止まっていた一礼をソイスープの前で済ませ、口をつける。
見つめるワソランの唇が、何かを言いかけて止まっていた。
『冷めちまった』
前でアルトは残念そうに眉をひそめる。
向かってワソランが、やおら猛然と立ち上がった。
乱暴な仕草で、テーブルと対の椅子を引き出し、わずかに湯気を上げる白い流動食と対峙してみせる。
『なら、わたしも最後まで闘うことにする』
言い放つなり、容器から付属のスプーンを剥ぎ取ってみせた。すくい上げた流動体は真っ白と輝き、それを口の中へと押し込む。が、次の瞬間にも後悔するように、ワソランの口からスプーンはゆるゆる、抜き出されていった。食むこともなく口をすぼめて浮かべたワソランの表情は、今にも泣き出しそうな苦悶のソレだ。ままにアルトへ振り返る。
『なにこれ、マズい』
言った。
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