「ぶぅえっく、しょぉいっ!」
わざとらしいほど派手なくしゃみが飛び出す。
そう、一言でいえば寒かった。
万一にも室温に不備があったとしたなら、帰還後、早々のメンテナンスが必要だろう。だが心底ひえ切っているのは外気のせいなどでない。トラはこれほどまで広かったろうかと、愛船『バンプ』のコクピット内、バイパスをかけたせいで極端に手数の少なくなった立ち上げ作業を進めつつ閉口した。
あの一件以来すっかり変ったトラの生活は、常に独りきりだったこのスペースをも、いつしかネオンとの共用スペースと変化させている。慣れてしまえば、今さらのように満ちていた活気がどれほどのものだったのかをつくづく思い知らされ、寒さは極限にまで達していた。
「だぁぁ、ぃっく、しょえいっ!」
おかげで、止まらないくしゃみ。
「くそ。誰かワシの噂でもしておるな。まったく」
悔し紛れとでも言うべきセリフか。
続けさま、その口から飛び出した何かを拭う。千切れんばかりに揺れたシワごと、手のひらで鼻頭をすりあげた。
段階を追うことなく臨界にまで達した『バンプ』の動力音は、すでに今すぐにでも飛び立てる勢いでトラの耳へと景気のいい駆動音を響かせている。聞きながら、とどめに袖口でも鼻先を押さえつけ、トラはこのくだりを搾り出そうとした。
「どうせ……」
が、飲み込む。なぜならその先を口にすれば、あまりにも生々しい光景は否応なくトラの目に浮かんできそうだったからだ。どうせ噂しているのはジャンク屋とネオンに違いない。言えはせず、振り払っていた。再び頬のシワを揺らして誰もいないこの場所でフン、とトラはただ鼻を鳴らす。
言わしておけとさえ、胸の内で吐きつけた。
確かに、こんなことが長く続くハズはないと、トラ自身、いつもどこかで疑い続けていたのだ。
始まりは、ある日突然、訪れるだろう何か途方もない衝撃。
そうして告げられる最後通告。
甘んじただけの厳しさでもってして、現実の果てへ引き戻される耐え難い苦痛と屈辱の瞬間。
確かにネオンはどれだけ真っ直ぐトラを覗き込んでいても、媚びることなく笑ったかと思えば遠慮することなく怒りをぶつけたとしても、時にわずかな恥じらいでもってしてプライバシーを主張したとしても、叱咤したその後に都合よく甘えてみせる無邪気さを放ったとしても、ジャンク屋の話はおろかサスたちと乗り込んだ政府船のラボ『F7』、その場所での出来事を忘れてしまったかのように、口にすることはなかった。
それを不自然だと感じていたのは、知りたいという欲求があったためか。だからして知らされぬわけこそ、平穏無事で理想的な日々を維持すべくネオンの気を遣いに違いないと勘ぐった。そんな疑念はいつしか山と積もり、隠された出来事は想像のままにトラの中で膨らむと、この毎日こそがいつか醒めて破れる夢なのだと、信じるに至る。
もちろんそれこそが、お得意の被害妄想だと笑われたならそれも然りだろう。だがこれほどまでに納得の行く顛末もなかった。そうならざるを得ないほどいまだネオンはトラにとって、変わらず埋めようのない隔たりを持った特別な存在で間違いなかった。
有して過ごしたいくばくかの時は、過ぎるほどに幸せな時間だったと振り返る。おかげで身に余る喜びと、あり余るその刺激に、いつしか自身は疲れ果てていたのだ、とも省みた。コクピットの静寂に、むしろトラはそう確信する。
ならいっそうのことだった。
これを機に楽になってやろうか。
考えてみる。
そうとも、どこで何をどう言われようが動揺の余地などないではないか。
思いなおした。
どれほどひねくれていようが望みは今、思ったほどの衝撃もなく叶えられたのだ。そうしてかつての平穏は、これほどの寒さと引き換え取り戻された。全てはあるべき姿へ還り、そしてネオンもまた今頃、あるべき結末を迎えているに……。
「てぇぃっ、く、しゃぇいっ!」
またひとつ派手なくしゃみが飛び出す。
「うぅぶぶぶぶぶぶぅ」
止まらぬ寒気に、トラはさらに大きく全身のシワを揺すった。巡らせかけた余計な想像を噛み潰し、ただスロットルを握りしめる。力任せと引いて『バンプ』の出力を上げることにだけに集中した。
従い、クルーザータイプの『バンプ』は野ざらしだった惑星『カウンスラー』のカードパーキングから乾燥しきった風を巻き上げ、観光惑星ならでは成層圏に浮かぶ港めがけて上昇してゆく。周囲には、どうにも中途半端な時間であることを示して、同様に港へ向かう船影がまばらと浮かんでいるだけだった。だからして港が確保している大気圏突破口を利用せずとも、管制手続きだけを済ませて自前のナビで外へ飛び出すことは可能だった。だが見渡すトラの手足は、なぜかしらそんな港からあえて宇宙へ出ようとする。
そうして今さらのように気づかされていた。
だからして己に唖然とする。
それでもまだ必要としていたのは、決断するまでの時間だった。
果たしてまだ、一体何を決断する気でいるのか。
過れば、即座に言い訳は星の数ほど繰り出されてくる。だが必要なほどと納得させるべく相手は手ごわかった。
やがて言い訳も底を尽きる。
トラが惨敗の白旗を降り始めたその時、 渋る相手は辛うじてこの言葉に首を縦に振ってみせていた。
ただネオンが心配だ、と。
『カウンスラー』へ戻る道すがらネオンたちの向かった模擬コロニーが何たる場所かを、送り届けてくれた極Yのクロマは詳しく教えてくれている。無論、ネオンを放置して引き返したことにジャンク屋が憤慨していたことも、そこには控えめながら付け加えられていた。ならばジャンク屋がネオンを放置することこそ考え辛く、まさにテンたちの船で罵った通り、またジャンク屋に助けてもらえばいい、は王道と成立する。
だのにこうして時間を稼ぐと渋る相手は、トラの中でこうもトラへ力説し続けていた。
ネオンが心配だ、と。
乗せて『バンンプ』は上昇を続ける。
近づく宇宙に濃さを増す空を呆然と見つめながらトラは、ならば誰とは何なのかと、それでもネオンが心配だと吐き続ける他者のような己の心へ、初めてその手を差し入れる。 かき分け潜れば、これほどまでにもつれる前の、トラがトラであり、ネオンがネオンでしかなかった時へ記憶は巻き戻されていった。
『F7』で己の思いを赤裸々と晒して訪れた和解に、演奏のドサ回りに不満を並べるネオンの瞳を。『Op-1』の狭い事務所で初めて仮死強制のポッドより足を踏み出した瞬間と、色味を失った唇で微動する事なく仮死ポッドにおさまったネオンの姿を。次の瞬間にも動き出すのではないか、と眺めて過ごした溜息ばかりの日々に、そうして閉じられたその瞳がどんな風に笑うのかを想像して、確かめんがためここから出してやらねば、と決断したあの日を。トラはつぶさに思い出していった。
そう、眺めるうちにいつからか、だったのだ。不自由なネオンの姿はトラの中で哀れみの対象へなりかわると、この不憫を拭うためなら何でもしてやる、と固く決意させていた。
やおらトラは息をのむ。
つまり何より望んでいたことは、ネオンの好意をひとり占めすることなどではなかった。望んでいたのはネオンが誰より幸せになることで、たったそれだけのたトラは尽くしてきたはずだった。だというのに一体いつから、こんなことになってしまったというのか。挙句、とんでもない場所へネオンを放り出してしまうなどと、今さらながら己を悔いる。
もしこの勘違いの果てに、ネオンがネオンであることを損ねるような事態が起きてしまったなら。あの笑顔を曇らせる何かがネオンの身に降りかかってしまったのなら。考えるほどに耐え切れず、トラはコクピットの寒さ以上にただ身を震わせた。
隔たりの向こう、それは触れることすら出来ないほど特別なものとして、 護るべく最初から存在していた。その思いは好いているから、などとひとくくりに片付けることができるようなものでなく、むしろ無条件の「願い」に近い。だからして今、迫られているのは、その「願い」を台無しにするのか、変わることなく護り続けるのかの二者択一だった。そしてトラに前者こそありえない。だからして知らせて心は忘れていた深いところから、ただネオンが心配だ、とこうも叫び続けていた。
ならばさあ、と時は手を打つ。
すでに高度は港の管制領域ギリギリだった。
知っているかのように論点も、躊躇するほどもう残っていない。
トラの太い指が似つかわしくない素早さでナビを連打していた。テンたちの船へ通信をつなげる。終えるや否や、傍らに放り出していたプラットボードを引き寄せた。ならナビがアクリラに航路を刻み、そこに独自の大気圏脱出口を開いてゆく。矢継ぎばや、光の灯ったスロットル脇のモニターへ、少々間抜けた極Yの顔は映しだされていた。
ナビが脱出口を固定する。
すかさずオートパイロットを作動させてトラは、プラットボードを起動させつつ、もう片方の手で出航手続きを済ませていった。応じて『バンプ』は大きく左へ傾いでゆく。
その中、トラは息せき切ったようにプラットボードへもまた、造語を読み込ませていった。
『座標をくれ! ネオンの向かった場所だ。模擬コロニーの位置を教えろ!』と。
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