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ACTion 47 『発 現』



『大丈夫。単なる有機系の有線だよ。帰属ips細胞を導入したウィルスに手を加えて、 発現酵素投入が続かなければすぐにも壊死するよういじってある』
 白いパンならほどよく焼き上がっている頃合である。パチリと音がして、アルトの背中からカーテンの熱は消え去った。
『発現酵素は二つ。完体と、お兄さんならヒトの神経幹細胞に呼応するやつだね。これが賢い奴らでね。それぞれがそれぞれの酵素に反応して、自律発現してゆくの。片方はお兄さんのそれとつながろうとして、もう片方は完体のレセプターに向かう』
 そんなアルトの頭上で、『ホグス』からマグミットへ何が手渡されていた。
『つながれば、お兄さんが完体の運動信号の発電所になる。ま、意志とも言うかな。もちろん外部からの酵素が必要な点で、発現細胞はお兄さんのそれと完全に同一化することはないよ。酵素の供給が絶たれたなら、代謝で数日後にはきれいさっぱり体は純正へ戻る』
 次にマグミットの指がアルトの背へあてがわれた時は頭上で交差したものが滅菌されたグローブだった事を示して、温もりのない無機質なものに変わっていた。
『ただし、例外はあるけどね』
 その指先が先ほど確かめた頚椎と胸椎を、数えなおしてゆく。そのつど『ホグス』から小さなシールらしきものは渡されると、マグミットはそれは確かめた背へ貼り付けていった。
 小気味よく進む作業の中、アルトは聞かされた話に思考を巡らせる。だがどうしても理解できず戸惑った。果たして別の体につながれているその間、自前の体はどうなるのか?そレとは別にもう一つの肉体の感覚が、意識へ介入してくるのか。いやそもそも、 そのワケのわからない異物にわが身を侵食させることへ、絶対的な拒絶を覚える。
『こっち。持って、端はそこ』
 捨て置き、マグミットが『ホグス』へ指示していた。
『ちゃんと押さえてんのよ』
 粘着力を持つシールのようなモノの剥がされてゆく音が、する。その音はアルトの脳裏へ、『ホグス』が光へかざしたスルメイカを思い起こされ、パウチされていたそれを剥がしたのだと察する。
『お兄さんは、学習するなら机上ってよりも実地派って感じだ。なら心配はすることはないね。 ここへ来た者は誰もそうだから』
 マグミットは慰め、言葉尻に二度と戻れそうにない雰囲気を感じ取ったなら、アルトはありったけの力で身をよじった。
 どちらが放ったのか、舌打ちの音が聞こえる。
 すぐにも疲れて大人しくなるだろうと考えるマグミットに、慌てた素振りはない。
『ウィルスを湿布すれば、酵素との反応はすぐにも始まるからね。しばらく身体感覚が分離するだろうけれど、無事、神経幹細胞が成長したら 完体の方からカンフル剤を打ち込んで優位刺激の誘導をしてあげるよ。その時は、ちゃんと目を覚ましてちょうだいね。後はお兄さん次第だ』
 そうして思い出したように『そうそう』と付け加える。
『だからって過剰な刺激はオススメできないことを、覚えておきな。例外があるっていったでしょ。過剰な刺激のやり取りが続けば、神経の癒着は促されて酵素供給を停止しても剥がせなくなるからね。ここから帰るつもりなら、ほどほどにこそが肝心だよ』
 案の定、切れる息に、アルトの動きからキレは失われてゆく。半分以上を上の空と聞き流して、ただ折られて詰まった喉で荒い呼吸を繰り返した。
 瞬間、あてがわれるヒヤリとした感触。
 首根っこへと、それは貼り付けられる。
 基準にして脊椎に沿って、慎重に貼り付けて行く手が腰まで撫で下ろされていった。
『まあ、ついでに言うならね』
 しまったと思うアルトとは裏腹だ。マグミットは淡々とハナシを続ける。
『わたしが詳しいのは』
 ようやく押さえつけられていた頭から手が離れていた。同時に、水槽へ埋まった指先へ、感電でもしたような感覚がまとわりつき始める。それは生理的にそぐわぬ音を聞いて自然と鳥肌が立つように、やがて繊細な神経線維へひとつまみの砂を噛ませると、どうにも堪え難い寒気をアルトへ与え始めた。止まらぬ身震いに、やがて髪までもが揺れ始める。
『そこにいたのよ』
 おかげで聞き逃しかけていた。
『わたしは、ツーファイブ社の違法実験衛星にね』
 震える息もそのままだった。弾かれたかのごとくアルトは振り返る。そこでマグミットは歪んだ指の間から、駄々をこねるように粘る滅菌グローブを剥ぎ取っていた。
 次の瞬間、それは始まる。
 水槽へ、体は引き込まれていた。
 どれほど突飛だろうと他に適当な表現が見当たらない。まるで生き物のように水槽の表面は、埋まった両手を手繰ると目の前で、アルトを飲み込もうとうごめいていた。液体との間に張った得体の知れない膜で包み込みながら、見る間にヒジを水槽の中へ引き入れた。
 マズイ、とアルトのこめかみが引きつる。
 つまり対処仕切れないなどと、所詮、許容量を越えた情報にさらされているだけだ、とアルトは己を落ち着かせにかかる。しかしながらどれほど理屈を繰り出してみたところで、事実、それら膨大な情報をぶちまける水槽は脅威でしかなく、感情は否応なく暴走した。
 気づけば目と鼻の先にある水槽の表面に、己が映りこんでいる。
 見据えたなら覚悟するほかなくなっていた。
 アルトは胸いっぱい、息を吸い込む。
 止まらぬ震えに漏れる息を奥歯でかみ殺し、身構えた。
 あてがった手の周りにあったサークルは、アルトを飲み込むたびに大きくなると、 今やその三分の一ほどを重ねている。その中央に、アルトの額は触れていた。とたん水槽は、アルトの頭を手繰り寄せ始める。飲まれた瞬間、顔面を膜に覆われていた。視界が白く濁り、液体もろとも膜は伸びて鼻へも流れ込んで来る。それきり胸が、腹が、腰までもが、狭いチューブの中をくぐり抜けるようにして飲まれていった。
 と、名残を惜しんでめいっぱい肺へ溜め込んだ空気が浮きとなり、アルトに浮力をつける。浮かび上がれば残されていた足が、床から離れ引き込まれていた。
 今や完全に一つと重なり合ったサークルは、人、一人を呑み終えて元の大きさへ戻っている。
 浮き上がったアルトの体を繋ぎ止めて、サークルに張られていた細い糸が束なり伸びていた。両手にあった刺激は今や全身へ食らいつくものとなり、闇雲と手足を振り回すアルトの動きに合わせて揺れる。だが逃れられるはずもないなら、やがて膜は伸縮性を失うと、アルトの体から一切の自由を奪っていった。
 中は、精製されたかのように純粋な刺激だけに満たされる。制限された単一かつ一方的なその情報は、たちまちアルトの感覚世界を萎縮させていった。状況判断などという客観視点を、ものの見事に奪い去ると、ただ独りきり、暗くとげとげしい小さな箱へ閉じ込められたような錯覚ばかりを肥大させてゆく。そのうえ詰めた息も限界となれば、果たしてそうする事となった理由がなんであったかなど、もう知ったことではなくなっていた。喘ぎアルトは、口を開く。吐き出された一握りの息が、柔らかくしなる球になって膜と頬の隙間を駆け上がっていった。頭頂より膜をすり抜けそれは、液中を水面へ昇ってゆく。弾ける鈍い音が、遠くアルトの耳にくぐもり響いた。
 聞きながら、喘ぎ肺を膨らませる。だが当然ながら望むものは入ってはこず、膜だけが 張り付き留まっていたそこから一気になだれ込んできた。弾ける炭酸水の爽快さならまだしも、そうして広がるのは砂利を押し込まれたような刺激だ。吐き出せるような余力などなく、鼻からも流れ込んでそれは、腹の底へ落ちて行く。
 ひどい苦味が好みに合おうが合わなかろうが、飲み下すには大量すぎた。
 咄嗟に、溺れると感じ取る。
 だが溺れることはない。
 ただ痛みは刺す。
 その刃物でも差し込まれたような痛みは背まで、突き上がった。
 瞬間、消え去ったと感じたのは肉体だ。水槽に満たされた液体同様、透明となってしまったように感じ取る。己とは、続く刺激をそのありかとした現象でしかなく、その心もとなさにうろたえた。だとして溺れる、という恐怖だけは消えない。肉体が要求する物理的な酸欠ではなかった。そう感じざるを得ない脳がアルトを溺れさせてゆく。
 視界は変わらず白く濁ったままだった。
 それが最後とうろたえるまま、アルトは肉体を求めて痛みの底へ沈んでゆく。
 次第に正体を、失っていった。


 見届け、『ホグス』は装置へ振り返っていた。
『酵素は毎セコンド、三七○でいいぞ』
 黒服へ声をかけ、装置のひとところを開く。奥から、水槽にあるサークルと同型の円盤を抜き出した。片面にはシールが貼られている。剥がせばそこに、微細で毛足の短いブラシのような毛はびっしりと埋め込まれていた。
 担ぎ上げて栓をする要領で、ブラシ面を水槽のサークルへあてがう。押し込んだなら軽く揺すって具合を確かめ、その周囲を一周する要領でジップをぐるり、引いて円盤を固定した。
『接続状態が悪ければ有線に変える。準備だけはしておけ』
 念のために指示しておいて、足元のペダルを踏み込む。抜けた床の底へと、やおら水槽は静かに沈みこんでゆき、浮き上がっていた『ヒト』の体が ちょうどの位置で、動きを止めた。続けさま奥から新たな水槽は一本、せり上がってくる。発現酵素の予備タンクだ。『ヒト』の浮かぶ水槽の隣に並んでそれも静止していた。
 久しぶりに使う水槽だ。間違っても自分自身がはまり込まぬよう注意しながら、『ホグス』は中をのぞき込む。酵素に異常があれば濁って底まで見通せなかったが、水槽の底は十分透けて見えると、書かれた造語番号をくっきり浮き上がらせていた。
 満足して微笑む。フットペダルを跳ね上げ床を、固定しなおした。
 いつものように、自らの仕事を終えたマグミットはすでにこの場を立ち去っている。飛び散った四体を処理する黒服だけが、そこにいた。
『終わったら、完体覚醒とパドックの準備、レート設定にかかるぞ』
 その黒服へ向け、一声かける。
 『ホグス』もまた立ち去りかけて、やおら鈍い音をたてた水槽に足を止めていた。どうやら中から叩きつけられたらしい。それもこれも枝をつける初期段階にはよくあるこで、『ホグス』は水槽へアゴを上げていた。
 案の定、混濁する生体信号のせいで『ヒト』の体は、突発的かつ脈絡なく、痙攣でも起こしているかのように跳ね回っている。さらに目を凝らせば脊椎へ湿布したウィルス帯の辺りに、淡い影が揺らめくのも見えていた。
 思わず『ホグス』はそこへと眉を寄せる。
 どうやら発現酵素に反応したウィルスは激しい代謝を繰り返すと、早くも神経幹細胞の片鱗を淡い影と紡ぎ出し始めているらしい。そのスピードは種族を問わず、かつて見たこともないスピードだった。
 唖然として『ホグス』は浮かぶ『ヒト』の顔へ、その目を向ける。
『まさかこいつ、キャリア……なのか?』
 やおら黒服へ指示を繰り出していた。。
『ダメだ。ひとまず、酵素供給値、十パーセントの加算。値を訂正しろ』
 そうして舐めた唇を噛む。額へ手をあてがった。ひずんだ傷を確かめるように爪を立てたなら、自然、目は細められてゆく。
『こいつは、荒れるぞ』
 呟いていた。


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