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ACTion 52 『忘却の恵み』



 慌てて掴んだものが掛けられていたシーツだったなら、ちょうどだった。引き寄せネオンは身を縮める。はっ、と気づいて中をのぞきこんだ。大丈夫だ。トラを待たせてまで選び抜いたブラウスを、まだちゃんと着ている。守ってなおさらシーツをその身へ引きつけると、改め頭上のマグミットを睨んで返した。ならばふい、とマグミットは視線を逸らす。連なりその身もまたひるがえすと、サイドテーブルに広げていたものを片付け始めた。
 向けられた背中が小さく揺れている。そこで歪み、突き出した骨は、羽織る衣服へいびつなシワを走らせていた。おかげで動きづらそうなその様子は、今ここで横たわるネオンより病人のような印象さえ抱かせる。
 だからといって、目の前で四体を撃ち殺したことは事実だ。ネオンはなおさら警戒すると、毛布を鼻先まで引き上げていった。
 おや、とその目を瞬かせる。
 改めくんくん、鼻をならしてシーツを嗅いだ。
 洗い立ての洗剤の匂いが心地いい。
 船の中でこんなものに出会えるなんて、とネオンは素直に驚いてみる。
『ま、お互い運がよかったってとこだね』
 知らずマグミットが、箱のふたを閉じると口を開いていた。
『もうひとりのおねえちゃんに礼を言っておきな。あんたを受け止めようと下敷きになってくれたんだよ。でなきゃ、あんたは今頃、それくらいの怪我じゃすまなかったろうよ』
『そんな……って、ワソランはどこ!』
 いきさつを知ったからこそ、ネオンは弾かれたように身を起こす。
「あ、いたたたた……」
 走る痛みに思わずその場で丸まった。再びカウチへ沈みこむ。
『ただの打撲だよ』
 声に振り返ったマグミットは、あきれ顔だ。
『落ちる途中、機材に引っ掛かったからね。おかげで、もうひとりのおねえちゃんが受け止められるくらいになれたんだよ。骨に異常はないんだから、アザさえ引けば問題ないさ。それくらいの痛みはガマンしな』
 講釈を垂れる。
 そうして本棚の一角へしまい込んだ箱の側面には、救急キットでお馴染みの『なでなで』マークが印刷されていた。だからしてネオンは慌てて自らの体へ視線を落とす。毛布からはみ出した腕の打ち身に擦り傷には塗られた軟膏がテラテラ光ると、痛みの残る腰には貼られた湿布の感触があった。
『……これ』
『あたしがしたからって、悪いものだなんて勘違いするんじゃないよ。吸収性の湿布を貼っておいただけさ。間違っても剥がそうなんてするのはよしな。消えるころには傷も治っているハズだからね』
 チラリ目をやったマグミットが、ぴりゃり、注意してみせる。
 顔をネオンは、ただ虚を突かれたように眺めていた。それきり吸い込んだ息の行き場を持て余して、やがてようやく言葉を吐き出す。
『……あ、ありがと』
 言うべきだと思っていた。
 食らってマグミットは、目にゴミでも入ったかのような勢いで瞬いている。
 目の当りにして慌てて付け足したのは、ネオンの方だった。
『もちろんワソランにも、後からお礼、言っておく。でも振り落したのは、あなたなんでしょ』
『ふん、それは大事な機材をかってにいじったおねえちゃんたちのせいでしょ』
 おかげでいつもの調子を取り戻せたらしい。マグミットが毒づく。
『だいたいこれから兄さんには、ひとふんばりしてもらわなきゃならないんだよ。あたしだって最大限に楽しみたいからね。そのためにもおねえちゃんには、そうやすやすと死なれちゃ困るだけさ。礼なんて、まったくめでたい勘違いはおよし』
 まくし立てた。
 ならネオンも繰り返す。
『ワソランはどこ?』
『あのおねぇちゃんは、目障りだよ。わたしの世界を汚すのさ』
 語るマグミットの眼に、とたん凶悪な影は落ちる。面持ちに嫌な予感は否応なく過っていた。ネオンは今度こそとその身を起こす。
『どういう、こと?』
 だがマグミットは答えない。
『けれどおねぇちゃんは違うハズだよ』
 ただ半歩、カウチへ歩み寄っただけだった。
『ねぇ。ここにいるあんたは賢い良い子だ。わたしにはそう見えるのさ』
 投げた。
『今すぐ、ワソランに会わせて』
 向かってネオンはただ繰り返す。
 瞬間、マグミットの手は振り上がっていた。掴んだネオンの毛布を剥ぎ取る。
『ここはあたしの船なんだよ。わかるかい?』
『ワソランに何かしたの? だったら、あたしが許さない』
 だとして譲るなんてできはしない。
『あのおねぇちゃんは、わたしの気分を害するだけなのさ』
 だからこそ対峙するマグミットが、身を乗り出す。
『だから別の場所でゆっくり休んでもらっているだけだよ。そんなことはとっとと忘れな。おねえちゃんには、もっとしなきゃならないことが待ってる』
 歪んだその指で、ネオンの尖ったあごをすくい上げた。力任せに引き寄せると、映りこむほどにその瞳をのぞき込んでみせる。
『あのおねえちゃんにも教えてやりな』
 言った。
『所詮、しがみついたところで誰ひとり、何一つ、あの世には持って行けやしないんだよ。何もかも捨てれば、ずいぶんラクになるものだってね。だのにこだわるなら、ここはあたしの船だ。あたしが忘れる方法を教えてあげるだけだよ』
『何よ』
 顔へネオンは、吐き捨てる。
『アルトとの約束を破る気?』
 アルトが支払うと豪語したファイトマネーだ。自らが見舞ってやるべく、拳を握り絞めた。気づいているだろうに引かないマグミットは目と鼻の先で、小首をかしげている。
『何しろ買い取ろうといったところで、おねえちゃんはあのお兄さんの商品じゃなさそうだものね』
『卑怯者』
 ネオンは唇を真一文字と結んだ。
 様子さえ楽しげと、マグミットはじんわり、表情を緩めてゆく。
『絶望おしよ。そうして諦めたなら、誰だって救われるのさ。あたしがそうさせてあげるさ』
 語る口に暗い穴が開いていた。閉じて微笑み、投げやるようにネオンのアゴから指を離す。勢いに体は捻じれ、ネオンは打ちつけた腰をかばうと咄嗟に手をあてがっていた。だが痛みは思ったほどでもない。思わず何度も確かめていた。
『ぼちぼち湿布の痛み止めが効いてきた頃かな』
 同様に吟味して、マグミットがのぞき込む。
『そのためにも、出来る限り盛り上げたいのさ』
 直後、言葉は投げかけられる。
『そら、お兄さんに会わせてあげるよ』
 弾かれたようにネオンは振り返っていた。否やそこから飛び降りる。やはりまだ早過ぎた動きに体は傾ぎ、言うマグミットの言葉に顔を持ち上げていた。
『たぶん、生きてると思うよ』
 両のまつげを張りつかせる。
『絶望って言葉は、素敵だね』
 じんわり笑むマグミットは、温かい。そうしてサイドテーブルの足元へ手を伸ばすと、そこからネオンの楽器ケースを掴み出した。差し出し、互いの間に置く。
『いいかい? おにいさんは直接その体でチャンピオンとやりあうんじゃないの。チャンピオンもお兄さんも別の体で試合に出てもらうのさ。そのために神経をつなげてる最中なの。なのにあんたたちときたら』
『なに、それ?』
 だが話はケース以上にネオンを引きつける。
『神経をつなげるって、あなた一体、アルトになにをしたの?』
『百聞は一見にしかずだ』
 答えないマグミットはむしろ、ネオンの体をしげしげ見回しこう吐いた。
『それにしても……なんだいそれは。やぼったい格好だね。それじゃ、醒めるものも醒めやしないじゃないか』
 クルリ、身をひるがえす。引きずる足でアンバランスな靴音を響かせると、保冷庫の隣、ショーケース下段に設えられた薄い引き出しを引き開けた。その中身を右に左を引っ張り上げ、見比べ決めたなら、それを手に戻ってくる。
『これに着替えな』
 ネオンへと突き出した。
 とたんネオンの頬はこれでもか、と引きつる。
『いっ!』
 どうやらモディーの叔父の見立ては実に的確だったらしい。そこにはモディーの叔父の店で却下したヒモ衣装が、ぶら下がっていた。


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