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ACTion 68 『DEAD OR... 1』



 聞こえたところで詮索しているヒマなどない。むしろ単なる耳鳴りと、起きたところでなんらおかしくない現状、アルトは払いのける。ただマットを蹴り出すチャンピオンを見据えた。とたん高まる集中力に、視界は魚眼をのぞきこんだかのごとくたわみ、歪んで伸びた周囲の時間の流れを変える。がなり立てていた観客の声はスローモーションと間延びして聞こえ、焦点の合ったチャンピオンだけがそんな風景を突き破るように、たがわぬ速度で鮮明と肉迫してくるのを目の当りとする。
 かわさねば。
 過るままに、慣れぬ体を手繰り寄せにかかっていた。などと完体はまだ自分のものになっておらず、意志と動作の間に志向は割り込む。
 気づけば腑抜けと見上げたその位置に、チャンピオンの巨体はあった。最後、詰める一足にマットを軋ませ、握りしめた拳をその身へ引きつけている。覆う胸の筋肉が、キリリとねじ上げられた糸のように、力を溜め込み筋張っていた。
 間に合わない。
 伴わないアウトプットに、言葉はアルトの脳裏をかすめ飛ぶ。
 ならもう動作などと言える代物でもなんでもない。慣れぬコマンド入力さながら、とにもかくにも肩を引いていた。身を捩じらせただ仰け反る。上を、振り下ろされた拳が交差するかのごとくかすめていた。過敏となった皮膚がザワワと気配を広げ、つぶさと見て取った分、なお再生速度を落とした歓声がドップラー効果と、耳へまとわりつく。ただ中でチャンピオンこそ笑っていた。
 調子に乗るな。
 言葉が胸の内にもれる。
 だからして目の前、交差して伸びる伸びる腕を掴むべく、アルトは反った姿勢のままで両手へ力を張り巡らせた。がその瞬間、チャンピオンの上体こそ残像とぶれて消え去る。入れ替わりと、背後に気配を感じ取っていた。
 マズイ。
 などと、一言でも長すぎる。
 引いた体をさらに倒すだけが精一杯だ。
 ならわずか鼻先をかすめ、チャンピオンのかかとは空を切る。
 アルトはそれきりどうっとマットへ、倒れ込んでいた。つまりあの回し蹴り食らわずにすんだというなら、それも然りだろう。だが状況はマットへ体当たりしたに等しく、受けた衝撃もさることながら、肥大した感覚にむしろマットの方が大きく波打ち、アルトの世界から音を弾き飛ばす。視界をたわませ、やがて痛みを通り越した遠い場所から痺れをじわり、叩きつけた右肩へ広げていった。
 だとしていつまでも寝そべっていられる状況であるはずはなく、身を起こそうとしたところで危うい平衡感覚に拍車をかけて、広がる痺れに感覚の中からもがれた片腕がなおバランス感覚を失わせる。
 もがくうちにも空振りに終わったチャンピオンの足が、再び静かにマットをとらえていた。肩ごしに、アルトへ振り返る。互いの目と目はそのとき合うが、チャンピオンの目にもう先ほどまであった笑みは浮かんでいなかった。
 体が動いた確証はない。だがアルトは思わず後じ去る。途切れてた音が舞い戻り始めたのはその時で、うねるような低いどよめきが巻き起こっていることを知らされていた。
 なるほど。試合が始まってたったの二手で起きたこの反応に、めっぽう強いチャンピオンの秒殺勝利は嘘でなかったことを知る。つまりいチャンピオンが本気になるなら頃合いで、ならおかしなことに、優位に立てば立つほど分の悪くなってゆく構図はアルトの頬を卑屈な笑いに歪ませるほかなくなっていた。
 そんなアルトを見おろし、チャンピオンが体ごと向きなおってゆく。そうして早く立ち上がれ、といわんばかり、立ち尽くした。
 確かに、痺れに正体不明となっていた腕もようやく輪郭を取り戻し始めようとしていたなら、同時に戻りつつある触覚が頭の芯を突き刺すような痛みをアルトへ送り込み始めている。こいつはむしろ感覚が戻るほどに身動きが取れなくなりそうで、予感したからこそ、アルトは奥歯へ力を込めた。
 フラつきつつも、マットへヒザを立てる。かたずを飲んで見守る観客の中、ゆっくりと立ち上がっていった。やおら沸き起こる歓声に鳴り響く指笛が、これまで以上と温度を上げる。
 受けてチャンピオンは一歩、踏み込み、飛びかかってくるのかと思いきやその身をひるがえした。アルトを捨て置き走り出したなら、それきりマットを蹴りつけゴムまりよろしく宙へ跳ね上がる。
 岩のような巨体が宙を舞っていた。
 鳥カゴとかぶせられた格子へ、けたたましい音と共に食らいつく。
 軋ませ、天辺へと登りゆくチャンピオンの動きは重力を無視したように軽く、素早かった。
 目で追いアルトはただアゴを持ち上げ、つまるところ頭上を取られようとしていることに気づいたところで、マズイ、と騒然としていた五体に五感を確かめなおす。つまり次に取るべき行動はもう決まっており、だからして持て余すだけのこの感覚は、与えるこの肉体は、自分のものではないのだと切り捨てにかかった。切り捨てることで、覚える痛みにどこを守る必要があるのかと、意識から苦痛の二文字を、その手前に立ちはだかる恐怖心を根こそぎ剥ぎ取る。
 いやそんなことなど出来やしないと白旗を上げる己がちらついたなら、むしろのその中へ埋没するほかないだろうと言い聞かせ、素早く深い息を吸い込んだ。
 溜めて全力で駆け出す。
 つける反動に振り上げた腕が痛いと駄々をこねたなら、押さえつけてマットを蹴りつけた。
 瞬間、外れて越えたものがリミッターだったなら、完体は羽でも生えているかのような軽さで宙へ舞い上がる。制御できぬアルトを格子へ叩きつけた。無我夢中でしがみついたのは、この高さから落ちてしまえば、マットへ倒れたどころではない衝撃を食らうことになるからにほかならない。絡めた指が切り刻まれるような痛みに襲われようとも、アルトはなお強く握りしめる。力を分散させて足もまた格子へ掛けたなら、上へ影は覆いかぶさっていた。耳元を気配はかすめ、何かが首へ絡みつく。のしかかる重みに視界は振り回され、のけ反ったところで上空からチャンピオンが飛びかかって来たことに気づかされていた。
 ぶら下がるチャンピオンの重みが、自重を支えてめいっぱいの指に腕へ襲いかかる。
 どれほど食らいつこうとも、意識だけを掴んだまま残し、剥がれゆく体が止められない。
 捨て去り、格子へ手を伸ばすチャンピオンの動きは、こなれていた。
 しかしながらさせるか、と踏み止まれたのは、この体だったからだろう。
 アルトは格子から手を離す。
 触れたチャンピオンの腰へと食らいつた。
 衝撃に、チャンピオンの足が格子から滑り落ちる。
 まさに構図は入れ替わりとなり、しかしながらぶら下がるアルトを振り落して、チャンピオンは容赦無用とその身を揺すった。
 何ら取っ掛かりの体から、次第にアルトの手は滑り落ちてゆく。それはもつれた糸がほどけ行くかのようで、解けて落ちてしまえやしないなら、辛うじて伸ばした手で格子を掴んでいた。
 と同時にチャンピオンに振りほどかれる。
 解放されたチャンピオンはすぐにも格子をとらえなおすと、激しくゲージを揺すりながら一気に鳥カゴの天辺にまで駆け上がっていった。うずくまるように身を貼り付けたなら、再び格子へ食らいついたアルトを見定め、両眼をギラリ、光らせる。
 だとして学習なら、今しがた済ませたところだった。
 未だ揺れる格子の反動さえ味方につける。
 チャンピオンが天辺から身を躍らせた瞬間、アルトもまたその身を真横へ投げ出した。
 チャンピオンの巨体がアルトの残像を掴んで格子へ、食らいつく。重みにまた格子は大きく揺れ動き、合わせてアルトは食らいついたそこからさらに上段へ、力の限りに己が身を打ち出した。追ってチャンピオンが身をしならせたなら、続くチェイスに頭上を奪って跳ね回る二体の攻防戦は、鳥カゴの中、縦横無尽と繰り広げられる。観客はこれまでにない一戦に沸きかえり、だとして続かぬ証拠にアルトの手は、痛みを越えてその感覚さえもがあやふやとなっていった。
 指先に力が入っているのかどうなのかさえ分からなくなれば、時折、掴み損ねた体が落下しそうになる。いや、チャンピオンになんら衰えが見られない以上、こうしていても何ら不利であることに変わりはなくなりつつあった。
 アルトはマットへ視線を落とす。
 握り続けた格子を手放した。
 とその時だ。
 懐かしくも頼もしい声は確かに、響いてアルトへ届く。だが状況はあまりに唐突過ぎ、己が耳を、むしろ意識そのものを疑った。しかしながら承諾した覚えのないあのフレーズで、イルサリは確かとアルトへこう語りかけている。

 父上 どうされましたか? 父上 お返事ください、と。


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