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ACTion 70 『DEAD OR... 3』



 窓の向こう、ふいと歓声が低いどよめきに変わっていた。
 ネオンは咄嗟と振り返る。そこで白く焼き付けられたリングへ目を凝らした。片隅に手足を絡めて伏せる貧相な完体を見つけ、目を細める。全身で大きく息を繰り返すそのよう数に、ネオンは窓へと駆け出していた。
『アルトっ!』
 呼び掛け、立ち塞がる窓を拳で叩きつける。
 だがその声に気づき、アルトが、完体が振り返るようなことはなかった。むしろ聞こえるはずもないほどに激しく、かと思えば途切れそうに浅い呼吸に喘ぎ続ける。
 間に合わないかもしれない。いやもう手遅れかもしれないと、思いはネオンの中を駆け巡っていった。ままになぎ倒されて、元より脆かった何かは決定的と崩れ去る。それは持てる力を根こそぎ奪われてゆくような、塞ぎきれない穴から全てが流れゆくのを途方に暮れて見つめるような、感覚だった。
 きっとこれがマグミットの言う絶望だ。
 感じたからこ頬は蒼ざめ、ネオンはマグミットへ向きなおってゆく。
『もう、いいでしょ?』
 瞳にはもう、先ほどまであった強気はカケラもない。
『もうやめさせて』
 負けを認めてただ訴えった。
『クラウナートで何があったのかなんて聞かない。あなたがもう諦めなくていいように、あたしが何でもしてあげる。埋め合わせられるなら、あたしの全てをあなたにあげる。だから今すぐ、試合を終わらせて。お願いよ、もうやめさせて』
 だとして見つめるマグミットの目は冷ややかを極める。侮蔑の色さえ浮かべると、愚かとネオンを見下した。辛抱ならぬと、ついにフレキシブルシートから立ち上がる。
『わたしの前で、命乞いなんて真似はおよし!』
 声がネオンを跳ね上げさせる。
『……誰もかれも気に食わないね。……気に食わないんだよ!』
 絞り出して奥歯を噛みしめたならその顔はなお険悪と歪み、かぶるハレモノを跳ね上げマグミットは、ネオンへ吐きつける。
『こだわるのかい、あんたもそこまで。あたしにみせつけたいのかい、そうまでして!』
 その足が、ネオンへ向かい踏み出されていた。
 それだけで追い詰められたような気がするのは、垣間見た闇に飲み込まれたのだと気づいたせいだ。ネオンは後じさる。背に窓は、はりついていた。


 背を突き抜けた衝撃は、まさに抱える内臓をことごとく吹き飛ばすほどだった。無論それが比喩だとしても、過剰な完体から送り込まれてくる衝撃はまさにその通りで、目の前に肉片が撒き散裸されていたとしても、なんらおかしくないとさえ思う。
 打ちのめされて振り切れた感覚の、しらけた世界で呆けながら、アルトはぼんやり考えてみる。
 やがて戻り始めた感覚に、背へ焼けた火箸を刺し込まれたような痛みを覚え、身を硬直させた。
 強烈な痛みに息が吸えない。
 溺れる寸前と、ただ口を開く。
 喘ぐままにどうにかひと息、吸い込めたなら、吐き出した瞬間、叫び声を上げていた。
 受け入れられぬ刺激をしこたま送り込まれた脳が、そのまま自らの吐き出す脳内麻薬に意識を断ち切ってくれたならどれほど楽だろうと考える。だが過度に覚醒した現状で相当の麻薬物質が補われることはなく、どこまでも堪能しろと冷徹を極めた。
 晒されて、情けないほどに泣き叫ぶ。
 模しているのか完体から、目に鼻に、口から体液は垂れると糸を引いていた。
 絡め、絡まり、しばし動くに動けぬ体で鈍くのたうつ。
 イルサリの声などとうに切れて聞こえず、これで勝負がついたと見限ったか、チャンピオンも観客へ向けて叩きつけた拳を突き上げた。
 確かにマグミットが言ったとおりだろう。このまま刺激に焼き切れてしまえば、クスリ抜きのアタマはおかしくなって当然だった。
 考えようとするわずか保たれていた正常の底がミシリ、音を立てて割れゆのを聞きながら、アルトは掲げられたチャンピオンの拳をただ、己が白旗のように見上げる。開きゆく瞳孔に世界が眩く弾けゆこうとも、拳だけが最後まで視界の中で影を落とすのを眺め続けた。
 その影は、『ヒト』のシルエットによく似ている。
 そう、まるで華奢な肩の、細い体つきそのものだった。
 だからして、いや、とアルトは目を凝らす。
 見慣れているからこそ連想したものがそれなら、そのとき影は、やおらアルトへ振り返っていた。そこからイルサリとはまるで異なる声を放つ。
 ネオンが呼んでいた。
 最善のビジョンが、そのメロディーが聞こえていた。
 消え入りそうな最果てから、今でもこうして紡ぎ出される未来はそのとき、アルトをからめて押し止めると、そこから剥がれて真っ白と輝きながら、フワリ鼻先へ舞い降りてくる。
 それは意志を司る、抽象を詰め込んだ、この世にたったひとつの具象(カタチ)をしていた。他者でありながら己そのものとアルトへ、まだやれる、と吹き込みこの身を遠く彼方へ引き上げてゆく。

 待つのはお前だ。

 言葉がアルトの中に、蘇っていた。

 何より迎えに行かねばならない。

 思いなおすが、こうしてすでに舞い降りていたなら、もうその逆かもしれないと思ってもみる。

 痛みに激しく脈打つ鼓動が、それでも生きているとアルトの中で歌い始めていた。聞き入れたなら吹き飛んでいた聴覚へ、観客の歓声もまたぼんやりと舞い戻ってくる。紛れて何度も呼びかけるイルサリの声さえ聞こえていたなら、相変わらずの一点張りに、健気がどうにも愛おしくなっていた。目じりへ、笑みを模した力がこもる。いや、そう誤解しただけなのか。伴い、収縮する瞳孔に世界は輪郭を取り戻し始め、比例して上下を示し、視界の片側へマットは伸びた。そこに投げ出されて腕は、ちょうどいいあんばいとマットを押さえつけている。
 試しにアルトは力をこめた。
 堪えようにも声は漏れ出し、痺れ切っていなかったなら、ままに軋む背中へ重みを傾けてゆく。
 唸るほどともれていた声は、いつしか沸き起こる歓声をも制すほどの大きさへと変わっていた。雄叫びを上げてアルトは、ついにその身を起こす。
 そもそも賭け事に予想外こそ、つきものだった。
 意気揚々と片腕を突き上げていたチャンピオンが、そんなアルトへ振り返ってゆく。


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