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ACTion 79 『俺より先に』



 肉体から毟り取られる。
 それとも肉体を毟り取られたというべきか。
 覚えた喪失感は与えられた衝撃以上となり、虚無の果てへアルトは吹き飛ばされる。
 待ち構えるそこへ放り出されるがまま、唐突なまでに液中へ飛び込んだ。
 やおらスイッチが入ったかのように開通する五感が、満る液体の生ぬるさを伝えよこし、くぐもったうねりを耳元で紡ぐ。降ってわいたかのごとく感じる浮力に足元をすくい上げられ、飲んだ胃の腑に肺の存在を、馴染むかつての肉体を意識の中で膨れ上がらせていった。
 同時に溺れる、と錯覚したのは、避けることの出来ない条件反射だろう。アルトは振り回す手足でもがく。勢いになおのこと耳元でゴボゴボと激しい音は鳴り響き、促されるままうっすらまぶたを開いていった。
 そこに興奮しきった観客も、ふてぶてしいほど冷静なチャンピオンの姿もありはしない。 ただ連なる気泡だけが、小刻みに揺れて視界を駆け上がってゆく。
 間違いなく、水槽へ戻っていた。
 思うその目に、ネオンの姿は飛び込んでくる。
 首から提げた楽器もろとも、水槽めがけ走っていた。
 何が起きたのかとうがる間もない。それきり隣り合う水槽へ手をかける。唐突さは尋常ならざらざる経緯を瞬かせ、飛び込むつもりだ、過ったとたんその体はのぞきこんだきりと中へ落ちた。
 抱えて帰った完体の記憶は今もなお鮮明とあったなら、左腕は折れたきりだとアルトへ訴え続けている。
 残る右手を背へ回していた。
 成長するとこの場へつなぎとめて揺れるプラチナの束を、その手でアルトは鷲掴む。
 妙に粘る手ごたえもろとも、己が身より引き剥がした。
 瞬間、ごぽり、と音を立てて満たされた液体はひずむ。アルトを飲み込み口を絞ったサークルが、足元で不意と力を解いていた。
 緩んだそこからどうっと、液は溢れ出す。
 吸い込まれ、流されるままだ。アルトもまた水槽の外へどうっと吐き出されていった。投げ出されて床の上、押さえつけられるような重力をしばらくぶりに全身で感じ取る。腹に詰め込まれていた液は口に鼻からあふれだし、なるにまかせてネオンの飛び込んだ水槽へと、その顔を上げた。ズブ濡れの、しこたま汚泥を吸い込んだ雑巾のような体を持ち上げたなら、歩けるつもりがもつれて床へつんのめる。
『あんなゴツイもの提げてたんじゃ、あの子は上がってこれないよ!』
 耳へ叫ぶマグミットの声は飛び込んでくる。重なり、ワイヤースリーブマッチ会場でどよめきは上がっていた。アルトの脳裏をイルサリの勇姿はかすめ、滑ったつま先で再度、床をとらえなおす。クラウチングスタートよろしく頼れない体を投げ出し、隣り合う水槽へどうにかもたれかかった。
 音にようやく、マグミットが目を細める。
『な……。ど、どうして!』
 その目をリングへ投げるや否や、目の前にいるアルトへ大きく口を開いた。
 聞き捨てアルトは水槽の淵を掴む。頭から滑り落ちるように中へと飛び込んだ。
 生ぬるい液体が再び体へまとわりつく。
 掻き分ければその深みに、おぼろとネオンの影は揺れた。音もなく淡々と落ち行くさまは、まるであの世へでも吸い込まれてゆくかのようで、させまいと狙いすませばアルトの両眼に力はこもった。
 追いかけがむしゃらに液を掻く。
 あと少し。
 振り返りもしないネオンの体へ、手を伸ばした。
 だというのにさようならでもしているのつもりか、ゆったり揺れてネオンの腕は思いを阻む。
 掴み損ねて目の前を気泡は駆け上がり、重ねた運動に体は相当量の酸素を消費していった。だとして水面へ戻るなど、まどろっこしいことは出来そうになかったなら、噛みしめた奥歯でアルトは間合いをはかる。
 と、今だ、と合図したのは間違いなく、落ち行くネオンの方だった。
 応じて伸ばした指がその細い手首に絡みつく。
 瞬間、想像以上の重みはそこへのしかかり、だからこそ命の手ごたえを感じ取り、引き寄せ、水面へ頭を体をひねる。そこで水槽の口は小さくすぼむと、アルトを見下ろしていた。目指せば短いながらも揺れて散らばる髪の隙間から、うつむいたきりのネオンの顔はのぞき、なされるがままと揺れる。その首から下がるクソ重い楽器だけが艶めくと、憎らしげにアルトへ笑いかけていた。
 捨てればどれほど軽くなるかと考える。
 できないならジレンマは、アルトの意地に火を点けていた。
 後押しするように、やおら足元を押し上げて浮力が増したのを感じ取る。液質が変化したのか。過ったそのとき、液を掻いていたはずのアルトの指先は空に触れた。おっつけ頭が水面から飛び出す。限界だった息を吐いて吸い込み、むせ返るままネオンの片腕を自分の首へ巻きつける。もう片方を水槽のフチへ放り上げたところで、その体を自分へもたせかけつつ、水槽の淵を右手で掴んだ。上がれそうな気がしなくとも、唸ってその身を持ち上げる。
『あと少し!』
 上へワソランの声は降っていた。
『楽器ッ』
 叫べばすぐにも、ストラップを手繰ってくれる。
 有り難いほど軽くなれば、一気に押し上がった体をワソランも掴む。個々で落ちてしまえば同じ芸当は金輪際、無理なのだから力加減など二の次だった。水槽のフチへ腹をこすりつけるようにして、外へと身を投げ出す。助けるワソランさえ押しのけると、それきり抱えるネオンを投げ出すようにして頭からどうっと外へ、転がり落ちた。勢いにネオンの体を手放していたなら、探して視線を這わせる。両手を投げ出し転がる体へ濡れて張り付く着衣は妙になまめかしかったが、 性急な関心はもうそこになかった。這うようにしてアルトはその肩を掴みあげる。リクエストされたところで穏やかな目覚めなどハナから無理なら、力任せに揺さぶった。力の抜けたままかぶりを振るネオンの息を、確かめる。
 止まっている。
 思えばネオンの肩が跳ねた。投げ出されていた腕の先で開いていた指は握り絞められると、ごぼり、ごぼり、と飲んでいた液を吐き出してゆく。そこからむせてうめく声が聞こえたなら、よかったと思うその前だ、浅い呼吸を始めたその体を抱きしめていた。勢いあまって倒れかけたなら、這い出してきたばかりの水槽へアルトはその背を預ける。預けてネオンの肩へと額を埋めた。
「なんてこと、しやがる」
 痛いほどのその力は、やがてネオンを揺り起こす。
 抱きしめる腕を目にしたなら、再びまぶたを閉じていた。
 説明なんて必要ない。
 裸足ではどこへも行けないといったのは、彼だ。
 なら溺れることさえ、できはしなかった。
 どこだろうと迎えに来てくれる。
 そこが地の果てだろうと、別れの底でも、だ。
 ゆだねれば、抱きしめられたその身以上、胸は痛んで、蘇る震えにネオンもまたすがりつく。
「だって、怖かったから。もう会えないと思ったから」
「バカヤロウ」
 なじられ、揺さぶり、ただ言い聞かされていた。
「俺より先に、死ぬな」
 うなずき返すだけでもう、精一杯になるた。
『これで満足かい』
 声は投げ込まれていた。装置に手をかけマグミットが、うずくまる二人をとらえいている。 同時に起きあがりかけていたワソランの向こうでも、チャンピオンの水槽がアルトのそれと同じく、サークルの口を開いていった。詰め込まれていたプラチナに液体が、どうっと床へ流れ出してゆく。
『おねえちゃんが無茶をしたせいで、酵素液の比重を変えちゃったよ。 おかげで途絶えた供給に、水槽が接続を切ったみたいだ』
 見届け、アルトとネオンはマグミットへと顔を上げていた。
 そこでマグミットは力なく笑い、急ぎ駆け出したワソランがプラチナの中へ、手を差し入れる。
『ダオ!』
 叫ぶなり、そのヒザはガクリと折れていた。
「まさかチャンピオンが?」 
 そうしてプラチナの中から抱き上げられた体へアルトは、目を細める。
「助けて、くれたの?」
 ネオンもまた、その目をマグミットへ張り詰めていった。
 前で、腕をもがれたチャレンジャーと岩のようだったチャンピオンは、何の前触れもなくその体をマットへ投げ出している。ついた決着の唐突さに観客も、アッケにとられているようだった。
 だからしてマグミットは吐きつける。
『あんたは何しに、ここへ来たのさ。あたしを壊すためだけに来た、悪魔かい!』
『そんな……。わたしは弱いひとの力になりたかっただけで。だからこの場所が秘密でいられるカラクリを探しにきただけ。あなたに酷いことをしにきたわけじゃない』
 ネオンは体中で返し、支えてアルトは水槽を背に立ち上がってゆく。
『なら、誰もが解読できる古い暗号を使うんだよ』
 明かすマグミットは、そこに初めて穏やかな笑みを浮かべていた。
『そいつをフリーメールに忍ばせてばら撒くのさ。読み取ろうとするのは、その必要がある者だけ。知らないモノは探せない、価値のないモノには誰も興味を示さないって寸法さ。あとは外部を遮断すればいい。広い宇宙じゃ、物を隠蔽するより、情報を絶つ方が遥かに確実だってことを覚えておきな。そうすれば利益を共有できる限り、だれもが仲間さ。裏切るなんて輩さえ、見逃したりしない。それだけのことだよ』
 そうして突っ込んだ指で、乱暴に着衣の襟元を広げていった。
『どうして?』
 だとしてその善意が、ネオンには理解できない。
『当然のむくいだと、お知り!』
 顔をマグミットはそれこそ阿呆かと睨みつける。
『あんたはわたしを跡形もなく壊してくれたからね。壊して外へ引きずり出したのさ。またどん底へ突き落とされるかもしれないこの世界にね』
 その足が、床のペダルを蹴り上げていた。水槽の周りで奈落へと床は落ち、二つの水槽からあふれ出た液体にプラチナの束はたちまち流れて、そこへ勢いよく落ちてゆく。
『その代償だ、とっておきな。けれど』
 つけたしマグミットが振り返っていた。
『待っていてよかったと、思ったよ』
 その頬へ、見覚えのある陽は差す。
『もう私にこれ以上は、いらないね』
 だというのに繰り出されたその足は、次の瞬間にもありもしない場所を踏んでいた。
『待ってっ!』
 覚えた戦慄にネオンは身を乗り出す。
 捉えることなどかなわずマグミットの体は、流れゆくプラチナもろともそれきり下層へと吸い込まれて行った。
 深さから、なんら音さえ聞こえてこない。
 たまらずネオンは顔を覆う。
 アルトがかばえば艦内へ、訛りの強い造語は鳴り響いた。誤報により、まもなくこの模擬コロニーへ警察が駆けつけことを、伝えてよこす。
「イルサリを犠牲にした引き換えってヤツだ」
 重なりこの場へ、けたたましい足音もまた踊り込んで来る。
 トラにスラーにライオンが、飛び込んできていた。
 ネオンを見つけたトラの口が、開口一番、その名を呼ぶ。


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