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共喰い/田中慎弥


芥川賞とは「文藝春秋」の売り上げを伸ばすため
話題作りとして設定された文学賞である。

と、言ってしまえば身もフタもないが、始まりはそのような具合で、
新しい感性の、より完成度の高い作品発掘、
などと選考の熾烈さがのち、優れた小説の選出をうながし、
文学賞としての最高の信頼を得る賞へなるに至った、
とN.riverは理解している。

くぐり抜けて伴う作品内容にくわえ、
十代の受賞という異例の事態や、
社会人経験がないという経歴と「もらっといてやる」発言はだからして、
本来の目的にさぞかし貢献しただろうと振り返る。
証拠に、普段、買わない「文藝春秋」を、
ついぞN.riverまでもが買っていた。
おそるべし。

本書は雑誌の状態で、50ページほどの中編だ。
主人公、17歳の遠馬と、その父親。
父親の持つ暴力性と、その暴力性が遺伝しているのでは、と恐れる遠馬。
周りで共に生活する女性たちの思いがつづられている。
なら家族物語のようで、関係は健全と程遠い。
どこかで読んだ書評にあったように、
舞台となっている土地の風土がよく書き込まれていて、
街も人も全体が混然一体となり、
ずっと醒めない悪夢、とも言い難いぬるい夢の雰囲気を醸し出している。
(ようにN.riverは感じた)

さて、『飲む読む』では常に、
その一行、一行を挙げて、どうだのこうだの、論ずることをしていない。
ふまえて同じにまとめるなら本書は、
「立ち尽くしている」という印象が拭えなかった。

まず本書には、主人公、遠馬、自らが打開してゆく劇的展開が薄い。
それは、止めを刺すに至らぬ無力感、
その中に息づく「優しさ」が見え隠れするせいではないのか、と思う。、
その「優しさ」こそ、著者、田中慎弥氏の持つものの現れ、
氏が表現し、賞を得るに至ったものなのではないのだろうか、
と考えて止まないのだ。

後の新聞のコラムで、『小説に対しては謙虚でいたい』と氏は語り、
自分は小説家としてそろそろ耐性が尽きつつあるのではないか、
と冷静に分析しておられたのを、N.riverは読んだ。
ならまったくもって言うとおり、氏は小説に対して謙虚である。
だからして「もらっといてやる」などと、
ふてぶてしい発言で話題をさらったことは、
過ぎたる優しさもあいまっての
「話題性」を見込んだ必死のパフォーマンスであり、
己を知るからこそ繰り出した、謙虚すぎる自虐ネタだったのではないか
と、N.riverは感じてやまない。
そのとき、わきかえる世間の裏でひっそり満足しているだろう氏の姿は思い浮ぶと、
勝手な妄想ながら、N.riverは切ない思いにかられるのであった。

すなわち構図は、『血と骨』と真逆だと思えてならない。
無論、そんな具合では生き残っては行けまい。
そして利己的なまでに守り抜き、欲望のまま毟り取れないからこそ、
喰わせ合う構図はそこに成り立つ。
そして『共存』ではなく、それこそが『共喰い』なのではないだろうか、
と本書に重ねて考えてみたりするのだった。


★文章は平易で
 淡々と古典的に物語は進みます
 性的な要素が強いので
 内容は 大人向けと思いました
 読んで だからどうしたと感じるか
 なるほどそうか と感じるか
 平易で古典的だからこそ
 読み手次第とおもわれます