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いま集合的無意識を、/神林長平


この本を知ったのは、某書評SNSのレヴューからです。
教えて下さったレビュワーさんに、ありがとうを。

さて、解釈において、半ば持論も混じっていると思われるため、
この作品をより正確に理解したのか、といえば自らに疑問は残る。
しかしいうならわたしは、これは「わたし」という意識、もしくは現象がなんであるのか、
を物語という装置を通して再現し、実験し、考察した著書だととらえる。

ほどに作中「わたし」が「わたし」で居続ける例は少なく、
どこかに「わたし」でないもののもたらす幻想や視点が混じり込んで、
その自明を脅かしている。

脅かされて初めて、読み手もまたそこに疑いを持つ構図は、
とうてい落ち着けやしないからこそ、
自らもまた「わたし」という意識の真の姿を追い求める者にならざるを得ないあんばいだ。

ところでラカンは言語について、
現実そのままを受け入れるキャパシティーのない人間が、
どうにか現実を受け止めるために使用した、情報量のきわめて少ない記号だと言っていた。(NR調べ)

その記号によって認識、構築された空間は、だからして疑似空間、バーチャルだ。
術なく住まう我々は、現実と常に隔てられたバーチャル空間の住人といえよう。

そして意識は、言語のつらなりなしに足りえないなら、
わたしを「わたし」と認識し続ける限り、
わたしの持つ意識そのものもまた、すでにバーチャルなのではないか、と。

だが「わたし」は本当に切り離されたきりの幻想なのか、と問うた時、
SFらしく、様々なテクノロジーの存在が補完をはじめる。

ネット空間でみられることのように、
もし誰かの呼び掛けを発端として多くの人が実際に集まり、現実へ実力介入することとなったなら、それはバーチャルであるはずの意識(呼びかけ)が顕在化した証拠で、
バーチャルだが確かと存在する我々の意識の存在証明ではなかろううかと。

果てに現実とバーチャル、テクノロジーと意識はどうなろうとしているのか。
本書は、その壮大な思考の序章なのだと考える。

最後、伊藤計劃氏にもふれられており、ファンなら必読かと思いますよ。