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Highter than Highter -1/10







 ふわり、世界が浮き上がったかのようだった。灯る明かりに現実感は舞い戻ると、磨り減った座席が体を包み込んでゆく。少しばかりのホコリ臭ささと、漏れるため息に込められた疲労感は、ここがまさに「20世紀CINEMA」のシアターB内であることを、思い出させていった。
 しかしながらここぞとばかり、百々は持て余す勢いのまま隣へと振り返る。
「すっごかったねー。あたし興奮しちゃった。やっぱり大自然は偉大だよっ! ね、ねっ!」
 浴びせられて、そこに腰かけていた田所が真っ先に返してよこしたのは、どうにか噛み殺したあくびの残る顔つきだった。
「おま、こんな時間なのに、ほんと元気な」
 確かに、観終わったばかりの映画は次回上映作品だ。つまるところ、新作のフィルムチェックのためのこれは試写上映で、通常営業終了後の実施が通例となっているそれが終了したのは、今回も深夜零時に迫ろうかという頃合いだった。しかも遅番のみの百々と違い、田所はそれ以前から劇場に詰めている。楽しめる域などとうの昔に越えた時間帯だった。
「ええ? だって映画、すごかったじゃん」
 口をすぼめる百々は、例の件の罪滅ぼしか、支配人、水谷によって初めて試写に参加するよう声をかけられている。超ロングラン「ぶっとびあかウサ! ネコ耳大作戦」の後ガマ、観終わったばかりの次作、壮大なネイチャー・ドキュメンタリーを思い出すと、再びその目を輝かせた。
「ペンギンって、泳ぐと早いんだね。それからキリンっ! あんなに可愛い顔してるのにさ、ものすごい迫力でケンカするんだからびっくりしちゃった。こう、首と首をぶつけて、バチンバチンって……」
 上がるテンションのままに右手と左手を交差させる。陸海空と長期ロケで撮りためた大自然の織りなす大迫力の映像を再現して、えいや、で叩き合わせた。
 だとして田所の反応は至って薄い。あくびをかみ殺したせいで滲んだ涙を拭いつつ、百々へアゴを突き返す。
「……ってさぁ。お前、ちゃんと見てたの?」
「……え?」
 再現シーンも佳境のままだ。おかげで百々の手は止まっていた。
「仕事で見てんだろ。フィルムの傷と音声のチェック。できてんのかよってコト」
 言って田所は、自分のメモを突き出す。そこには走り書きながら不備内容と、その箇所に相当する時間がいくつか書き込まれていた。だとして再現シーンに熱中する百々の手元に、そんなものなどあるはずもない。慌てふためき百々は左へ右へ首を振った。映画に夢中になるあまり振りまいてしまったらしいメモを、やがて背もたれと座面の間に見つけてほじくり出す。いまさらのように睨みつけ、そこはかとない白さに頬を引きつらせた。
 盗み見た田所も肩を落としている。
「あのな」
「ま、最初だから仕方ないでしょ。今度から、ちゃんと頼みますよ。百々君」
 水谷だ。真後ろの席から立ち上がっていた。
「す、すみません」
「じゃ田所君、映写室でね」
 かつての時代劇で活躍した某ご老公か。百々の背もたれをポン、と弾き、それきりかっ、かっ、と、高笑いを放ちながらシアターBを出てゆく。
「あ、すぐ行きます。着替えたら、ロビーで待ってろよ。俺、駅まで送るから」
 伸び上がった田所はそんな水谷へ口早と返し、うなだれる百々へと付け加えていた。
「え、そんなのいいよ」
 驚き、百々は顔を跳ね上げる。
「お前さ、いい悪いじゃないって。この辺、ビジネス街だから今の時間は人通りないし、さっきニュースで台風の進路が変わって朝には直撃だって。だから駅まで送ってやるよ」
 防音扉へ駆け寄りながら言い放つ田所に有無はなかった。押し付けた肩で重たげと扉を開け、表へ出ようとする。なら急ぎ、百々も追いかけその隙間へ身を滑り込ませた。
 抜け出したフロアに明かりはなく、きしむ床が灯る非常灯の明かりだけを濡れたように滲ませている。人気のなさはなお際立ち、比べたならむしろ街灯のせいで明るく見える外の景色は正面扉のガラス窓にのぞいていた。街路樹はそこで確かに、風になぶられ枝を振り回している。
「あ、ホントだ」
 とはいえこれが人生初の台風、というわけでもない。
「いいよ、一人で帰れるから。それよりタドコロ待ってたら終電、乗り遅れちゃうかも」
 笑って百々は肩をすくめた。
「遅れたら遅れたで、バイクの後ろに積んでやるし」
「でも駅まで十分ちょっとだから。本当に大丈夫だよ」
「そうか?」
 ラストまで詰めることの多い田所は、普段からバイク通勤なのだ。
「うん。ありがと」
 引き下がった田所へ百々は微笑み返す。ままに互いはカウンター前で、道を分けた。百々はバックヤード一角にある更衣室へとシアターA前のロビー脇鉄扉を目指し、田所はカウンター向こう、事務所のさらに奥にある映写室へときびすを返す。
「田所くーん」
 どうやら待ち切れなかったらしい。ちょうどと事務所の鉄扉からは、水谷がひょっこり顔をのぞかせていた。声に振り返って田所は遅れを詫び、百々へと手を振る。
「気をつけて帰れよ」
「うん、おつ」
 同様に返して百々は、続けさま水谷へも頭をさげた。ならお疲れ様、と手を振り返す水谷は、そんな百々に何事かを思い出した様子だ。「そうそう」と、言葉は付け加えられていた。
「百々君、そろそろ例のハナシ、ね」
 などと意味ありげな伏字が示すところは、さしあたってのアレだろう。なら美しくも壮大な作品に忘れかけていた現実は百々の前へ舞い戻ると、百々に歯を剥き出させていた。
「そろそろも何も、お話できることはありませんからっ!」
 そう、いつものアルバイトにいつもの仲間がいたとして、百々が変わらぬ平穏な毎日を送っていたのかといえば、少し様子は違っていたのだ。


 世間で言うところの「ポン菓子製造機暴発事件」が、原因を含めて世間から忘れ去られるためにかかったのは、およそ十日。田所がその被害者である百々へ事件の話題を持ちかけなくなったのは、それから三日後で、さらに塗り替えた芸能スキャンダルやら、新しい事件さえもが落ち着き始めたのが、「ポン菓子製造機爆発事件」から数えておよそ三週間後の今日だった。
 事件直後はセクションCT入職に必要なID作成のため、いわゆる健康診断から両手足の指紋に声門、唇門、眼底撮影。住所指名、連絡先の記入はもちろんのこと、戸籍の確認に家族構成云々、各種誓約書に、加入する保険らしき書面へ、百々は大量のサインを求められている。
 しかし終わればその後、呼びだされるようなことは一切なかった。提出した書類と引き換えに、一枚のカードと無骨な専用端末を渡されたきり、百々は「待機」という日々を過ごしている。
 それらカードと端末は、常時携帯が鉄則らしい。カードはいわゆる身分証明書で、専用端末に至っては全職員が所持するGPS内蔵、多量のデータも高速通信可能なスグレモノだと教えられていた。
 着信の取り扱いに情報の閲覧方法、身の危険を感じたとき本部へ送るアラートの発動方法を教わったそれは、だからしていつも持ち歩くミントグリーンのトートバッグに放り込んである。
 おそらく、必要となる時はただ事では済まない時なのだろう、と百々はひそかに予感していた。だからしてその日からそれらは不吉の象徴となり変わると、百々へ鈍く重い感覚を与え続けてもいる。


 着替えをすませた百々の目に、今日もそんな端末はチラリ、映り込んでいた。だがうんともすんとも言わないなら無視するに限り、ロッカーに忍ばせていた置き傘を取る。
 バックヤードの愛想も尽きた通路を抜けた。
 テナントビルの裏口から外へと出る。
 とたん、普段から強いビル風にも増して強烈な横風は、百々の体を叩きつけていた。
「わ、ひゃ」
 そんな風にしなる街路樹の枝葉の音もまた、すさまじい。田所が言った通りだ。辺りに人影はなく、ときおり車が、バイクが、この猛烈な風を裂いて駆け抜けてゆくのみと、そら侘しい光景はそこに広がっていた。
「すご。電車、動いてるかな?」
 負けじと百々も、踏ん張り歩くことにする。この間、ワンボックスカーで激走した「20世紀CINEMA」前の裏道をひとまず「ハモ公園」方面へ向かった。最寄駅はその先、信号を二つ渡って「ハモ公園」と逆方向へ折れたところにある。駅の周辺は深夜でもネオンの眩しい繁華街が広がっており、その繁華街を縦横無尽に潜り抜けて最短コースを取るのが、百々のいつもの帰り道だった。
 ならそれは、駅周辺の繁華街へ入るべく最後の信号まであとわずか、という所で起きる。
 吹き荒れる強風に混じって不意に、背後から靴音は聞こえていた。
 すぐにも怪しい、と気づいたのは、がぜん音が近づいてきたからだけでなく、抜き去る気があるとして進めば互いがぶつかる位置を取り続けていたせいだ。
 進行方向を睨んだままだ。
 百々は思わず目を細める。
 細めてにわかに、足を早めてみた。
 なら追いかけて、背後の足音もピッチを上げる。
 おかげで上がった悲鳴はソニックウェーブか。百々の胸をそれは音速さながら駆け抜けていった。同時に脳裏へ浮かんだのは「痴漢」に「強盗」の文字で、いつの時代か「ひとさらい」のくだりさえもがスクロールしてゆく。挙句、「テロリスト」の五文字が激しく明滅したなら、百々の首はコルセットがはめられたかのように振り返ることができなくなっていた。
 そう、きっとテロリストだ。
 つまりここで歩調を緩めたりすれば追いつかれて……、の、先はトンデモ過ぎて想像にモザイクが入ってしまう。
 ともかく百々は、トートバックを小脇に固く挟み込んだ。
 ままに前傾姿勢と身を倒す。
 繁華街まであとわずか。田所に送ってもらえばよかった、などと後悔なんぞは打ち捨てたなら、いち、にの、さん、だ。奥歯へ込めた力のままに、まさに「わーっ」と声を挙げる勢いで脱兎のごとく駆け出した。
 背で靴音もまた、間髪入れず走り出す。
 繰り出される響きには走り慣れた小気味よさがあった。聞くだけで互いの実力にある歴然の差は知れて、渡れば繁華街のアーケードが待つ横断歩道を前に、百々はいともたやすく追いつかれてしまう。
 瞬間だ。
 肩を掴まれていた。
「おい」
 かけられた声は男のもので、のけぞらせた体で百々は息をのむ。
 のむと同時に、その言葉を脳裏に過らせていた。
 端末だ。
 思うが早いか、トートバックへもぐりこませる手。無骨な形はすぐにも指に触れて、百々はひったくるように掴み上る。肩の手を振り払ってきびすを返えし、初めて向かい合った相手の大きさに見上げて口を、あんぐり開けた。いや、ぼうっとなんぞしておれぬと、開けた口でこう叫ぶ。
「痴漢っ! 強盗っ! テロリストっ!」
 普通、そんな三段構えで叫ぶ者はいないだろうが、このさい仕方ない。勢いのまま振りかざしたバッグを相手へ叩きつけた。
「違うッ」
 さなか、押し応えのあるアラートボタンを、えい、と奥まで押し込むことも忘れない。
「違うわけないっ!」
「だから落ち着けッ」
 と、知った音はピピピ、とどこからともなく聞こえてくる。聞き覚えのあるそれは、端末からの呼び出し音だ。だが百々の端末からではなかった。
「……な」
 様子に思わず、百々の動きは止まる。
「俺だ」
 なるほど、殴りつけていた相手がそれを胸元から抜き出していた。
「……そうだ、痴漢で強盗で、テロリストは俺だ。間違いだ。今、ドドといる」
 食らった不名誉な応酬によるものか、それとも事態の深刻さを表してか、セクションCT職員、レフ・アーベンは憮然とした表情で端末を耳に押し当て、そこに立っていた。その薄い色の目がギロリ、百々へ裏返る。
 タイミングが悪いってば。
 言えそうにないのだから、「おイタをしたのはこいつだ」と百々は、あるのかないのかトートバックの首根っこを締め上げとにかく笑った。
「あは、は。び、びっくりした」
 だが端末を胸ポケットへ戻しているレフが聞いている様子はない。への字に結んでいた口を開いて一言、百々へこう告げる。
「緊急の用件だ。迎えにきた。今から現場へ向かう」