case3# バスボム  -1/8







 翌朝。
 昨日、一日で終わるはずもない事情聴取に、ハナは引き続きここオフィスを離れていた。
 春山の家宅捜査を終えたストラヴィンスキーも渡会と二人三脚、ヘリで現れた二人の家へ向かっている。
 ビッグアンプルの工事現場が鎮火したのは爆発から半日以上経った夕方で、現場検証は今日も行われるらしい。ハートもまた、ここにはいなかった。
 百合草に至っては、初めてその名を知らされた赤いスーツの彼女、曽我伊織(ソガイオリ)から指示を受けるよう言い残したように、上層部への報告に向かい、やはりいない。
 乙部は乙部で確認したいことがあるらしく、ヘリのパイロットが勤める民間エアポート会社へ向かったとのことだった。もちろん陸路で、である。
 なら果たして百々はどうかと問われたなら、言われたとおり朝八時半、訪れたオフィスの一角、借りた仮眠室のひとつでテーブルに向かい、ひしとペンを握りしめていた。そんなテーブルに乗っているのは「規則の順守と安全の確保」と書かれた四枚のレジュメに、白紙のレポート用紙一束である。
 レジュメは何かしらの本の一部をコピーしたものらしく、隅にページ数が印刷されていた。その中身は、ひたすら退屈な専門書のにおい立ち込める難文で埋め尽くされている。
 そう、百々に仕事が与えられるなと愚の骨頂。あてがわれた役割こそ、それらレジュメを読破し内容をレポート用紙十枚にまとめる、という指示を無視してクレーンを傾けたことに対する処罰、その膨大な反省文の提出だった。
 しこうして百々は、あらん限りの力でペンを握り締める。
 対峙した用紙へつむじ風巻き起こるほど書くのだ、という気合をぶつけた。
 だが何をと、考えは考えを要求し、決意を揺るがす。
 十枚。
 それはそびえる壁、まさにアスリートの枚数だった。
 ならば何をと選ぶまでもなく、何でもかんでも片っ端から書かねば終わる量ではなく、前にして怯むなどと言語道断、夜も明けなかった。とにもかくにも最初の一文字を刻まねば、と百々は上段の構えで腕を振り上げる。気合一発、レポート用紙へペンを突き立てた。
 が、その先が続かない。
 引いた線はやおら力を失うと、のたくるミミズがことくあさっての方向へ流れて用紙からはみ出し、百々もそれきりテーブルへ突っ伏した。
「だめら。眠ひ。意欲が湧かなひ。じゅ、十枚は多過ぎるよぉ。提出するまで帰れないなんてコレ、拉致だよぉ」
 気を紛らわせるためつけたテレビからは、台風一過のビッグアンプル中継が「自然の猛威」とテロップを入れて傾いたクレーンを映し出している。
「だから、ごめんなさいぃ。それ、あたしですぅ。もう二度とやりませんぅ」
 突っ伏したままで詫びを入れ、どうにか重い頭を持ち上げた。これではいかん、と背伸びよろしく両手を突き出す。足を振り上げフン、と腹へ力を入れなおした。
「よぉっしっ! 書く、とっとと書くっ! わたしは書くぞ、書くぞ、書くぞぉっ!」
 真っ向、用紙と睨み合う。
 ままに、暴れる獲物を取り押さえるかのごとく、ガバと覆いかぶさった。
 が早いか、一心不乱にペンを走らせる。
 止まることなく一気呵成と走らせた。
 わきあがる言葉も湯水のごとく、神がかり的執筆意欲でもってして走らせた。
 走らせ、走りに走らせ続けたはずだった。
 だのに百々の手は止まる。
 用紙へかじりついたままだ。おずおず首をひねっていった。
「ってさ……」
 それはずっと気になっていたことである。
「なんで、ここにいるの?」
 隣には、椅子を並べて文庫本なんぞを読みふけるレフがいた。サイズさえコンパクトでないなら、正直言って邪魔でしかない。
「あの、もしもし? みんな捜査に出てるよ」
 余計なお世話で促してみる。
 だが文字を追うレフの目が、本から逸れることはなかった。
「俺には俺の仕事がある」
 言い分に、百々は目を白く濁らせる。
「ふぅん、ここで油売ってるのが、お仕事ですか」
 何しろノータイでこそあれ、見るたび白いワイシャツに冴えないジャケット姿だったレフは、今日に限って銃も携帯していなければ着ているのはアイボリーのニットときている。組まれた足元も無防備そのものラフな綿パンツだったなら、様子はリゾートの昼下がり辺りが妥当といえるいでたちだった。
 そんなレフの指先で、また文庫本のページは一枚、めくられてゆく。
「お前の書いたレポートをソガへ持っていく。それが俺の仕事だ」
 言った。
 ああ、なるほど。
 うなずきかけて、百々は押し止まる。
「じゃ、じゃ、それまでずっとここにいるのっ?」
「目を離すなと言われた」
 返された返事に、パクパク動く口の止め方が分からない。ままに百々は正面へ向きなおった。再びどうっ、と用紙へ崩れ落ちる。
「いやだぁ、余計に書けないよぉ」
 悲鳴にも似た声を上げ、すぐにも顔を持ち上げる。捻った首で、改めレフを盗み見た。
「もしかして、それってこの間の命令、の続き?」
 案の定、レフに返事はない。涼しい顔でひたすら本を読み続ける。要するに見解には間違いがなさそうで、百々ははたまたテーブルへ伏せた。
 そう、レフは百合草がここを離れている間、捜査からハズされたのだ。もちろん本人も気づいている。だからしてつとめて殺した我に、昨日に増して無愛想さは際立っていた。なにしろ「逃がすつもりはない」と言ってのけたレフである。一部始終に相当、無理をしているんだろうな、と察してみる。そもそも「書類運びが仕事だ」などと、似合わないにもほどがあり、不憫さだけが拭えなかった。
 おかげで費える、百々の文句。仕方なし、とくずおれていた体を持ち上げていった。つまらないことを尋ねてしまったと思うからこそだ。意味もなくペン先へ視線を落とす。思い切ってその口を開いた。
「それ、何、読んでるの?」
 百々用に封を切られたらしいペンは真新しく、その手の中、インク漏れひとつ見当たらない。
「やっぱ、英語の本とか?」
 握りなおして百々は今一度、感触を確かめた。
「レフってさ、アメリカのどこ出身だっけ?」
 書き心地を試すように振ってなにげに、尋ねてみる。
「西とか、東とかいうじゃない」
 それもまた持て余すと、テーブルへ置いた。
「手が離れた」
 すかさず飛びくる注意に握りなおし、すぐさま書きます、と身構え意思を表示する。
「ロシアだ」
 レフが答えていた。
「ロシア……」
 それはまったくもって候補に上がっていなかった地名だった。
「だが俺の中には四分の一、日本人の血も流れている。母方の祖母が日本人だった。その祖母は、俺に日本語でしか話しかけてこなかった」
 まるで書かれている文字を読み上げるように言ったレフは、また文庫本のページをめくる。
「それで日本語うまいんだ」
 とたん、百々の連想ゲームは始まっていた。
「へー、ロシアかぁ。ウォッカにモスクにマトリョーシカ、ピロシキ、スターリンに赤の広場。ドフトエフスキーの国だね。じゃその本、ロシア文学? だったら読みがいあるよ」
 しかしそうではないらしい。
「違う」
 レフは言う。
「じゃ、何?」
「一級を受ける」
 返されていた。
「一級?」
 言葉が抜けすぎで、問い返すほかない。
「漢字検定だ」
「は?」
 明かされたからこそ固まっていた。
「これが思ったより難しい」
 だからしてロシア人のジョークは真剣に言うところに面白みがあるのか。
「あっ、あっ、あったりまえじゃん。ふ、普通さ、もっと下から受験するもんだよ。だ、段取りってものがあるじゃん。段取りが、さっ」
 とりあえず笑って諭す。
 が、レフの言い分はこうだった。
「準一級は、もう合格した」
 沈黙。
 いやそのときテーブルを抱えて百々は、遥か彼方へ身を引いていた。こやつ何者、と頭で言葉は巡り、口には出せず片眉だけを痙攣させる。と、レフの視線が初めて本から持ち上がった。
「悪いか」
 なぜ睨む。
「ない、ない、ない、ないですっ」
 命をかけて、百々は首を振り返す。
 うそつけ、と言わんばかりのレフの目は白い。その目は再び文庫本へ落とされていった。
「さっきから、手が止まっている」
 言うものだから用紙へしがみつくしかない。
「はぁいっ! ……オ、オタクだ、西洋の漢字オタクだよ。っていうか、いつ勉強してるわけ? どれくらい勉強してるわけ? おかしい。絶対おかしいよ……」
「聞こえているぞ」
 過ぎた動揺を指摘されて、百々はついに頭を抱えた。
「あー、もう散々っ! ムズかしいっ! 眠いっ! 集中できっこないっ! 十枚なんて絶対無理ですっ!」
 ごまかす姿はもう、スランプ中の作家だ。
「まるでターザンの雄叫びだな」
 一瞥したレフが、のそり動くと背を向け言った。
「またサファリの映画でも見たのか? 昨日は試写だったんだろ。どうせなら文豪の生涯でも見てくればよかったんだ」
 などと嫌味は「ジラフアタック」が通信に乗っていたせいにほかならない。今では知らぬ者がいないほどのそれは名文句で、しかも弁解に直前見た映画の説明なんぞを百々自身が加えていたなら、掘った墓穴は痛恨の極みと状況へ輪をかけていた。
「昨日の映画はサファリじゃありません。昨日のはっ!」
 言わずにはおれず、そして口にしたからこそ、そこで言葉は途切れる。次の瞬間にも爆発は、百々の頭の中で起きていた。気づけば力説のあまり振上げた拳は宙に浮き、行き場を失ってれきり百々は、レフの背中をぽかすか殴りつける。
「なんだ。そんなに顔まで赤くして怒るほどのことじゃないだろ」
 驚いたレフが、丸くした目で振り返っていた。だが今度は百々が答えない番となる。顔も合わせずテーブルへかじりついていた。とたんペンは先ほどまでのことが嘘のように、爽快と走り始める。
 もうそれしか残されていないのだ。まだ葬る先すら決まっていないなら、いつもどおり終えた「20世紀CINEMA」の遅番。そのあとに見た次回上映作にまつわる一部始終を忘れんがため、百々は反省文のアスリートになることを心に誓う。