case4# COMING SOON! -5/7







 話を終えた水谷は、事務所の片隅におかれた自分のデスクへ戻っている。
 遅番勤務まで時間のある田所は、パンを机に並べたままフロアの自動販売機へ飲み物を買いに出ていた。
 休憩室に残った百々はといえば一人、鼻歌を心地よさげと響かせる。
 「バスボム」の大入りが予想された今、提出しなければならない希望勤務シフトは勤務可能な日すべてを書き入れてほしい、とのことで、応じて惜しむことなく提出用紙へチェックを入れ回っていた。
「うわー、十連続かぁ。でも、入るかどうか分からないし、コッチとコッチも入れちゃえ」
 と、映写室で回り続けるフィルムの音は、その時ひときわ大きく室内に響いた。田所だ。フロアから戻ってきたらしい。
「っと、あぶね」
 声は聞こえ、事務所から降りてくる気配は過った。テーブルを回り込むといかにも熱そうな手つきで、机へ紙コップを置く手が百々の視界をかすめる。
 匂いを嗅ぐまでもなくそれがコーヒーであることを、百々は知っていた。それも砂糖入りのミルク抜きだとさえ、言い当てることが出来る。何しろ田所が他に手を付けるところを見たことがなかったし、いつかブラックを飲んでやる、というのが口癖だと知っているからだ。
 案の定、香ばしくもほのかに酸い香は部屋中へ広がり、続けさま客用に使えないからと下げられていた半壊のパイプ椅子を引き寄せ田所は、百々の隣へ腰を下ろした。伸ばした手で、二つあるパンのうち明太子ペーストの乗ったフランスパンをつまみ上げる。
 それが田所の大好物であるということは、すでに誰もが知る事実で間違いない。だが好きなものから手をつける性分であることに気付いているのは、案外自分だけかもしれず、百々は今日も迷わず取った一部始終にひとりごちていた。
 ならパリリ、と控えめな音をたてて袋の口は破られる。つまり話すなら口の中へ物を入れる前に、が礼儀だろう。だがかぶりついた勢いを借りて田所は、話し出していた。
「希望、出さないのは、てっきりお前が辞めるつもりでいるからだと思ってた。余計なことを言ったのは俺だし。参ったなと思ってた」
 鼻歌も、そんなこんなのうちに立ち消えだ。百々は睨み合っていた提出用紙から、顔を持ち上げる。こぼす田所を横目で盗み見た。
「そんなわけないじゃん。あたしは逃げるようなこと、何もしてないもん」
 確かに、バスの彼女に会う前ならそうしていたかもしれない。だが知った今、百々にその気はなくなっていた。ただ戻した視線で、つけたチェックに間違いがないかを確かめてゆく。
「だ、な。めちゃくちゃやる気みたいだし」
 様子を新たな悩みの種ととらえたらしい。返す田所の声に覇気はなかった。
「タドコロだってね、やめちゃだめなんだよ。映写、教えてもらい始めたところなんだから」
「あのさ、フラれたこととそれは別、ってことくらいわかってるつもり」
 言って面倒くさげと、その手が紙コップを掴み上げる。
 だがその決めつけこそ、あの夜と何も変わるところがなかった。
「あたしはまだ何も……」
 言っていないのに。
 百々は言いかける。
「それよか、お前さ」
 紙コップを傾けた田所に、またもやその先を遮られていた。
「支配人に調子よく返事してたけど、これから当分、土日がつぶれるだろ。俺が言うことじゃないだろうけどさ、それでうまくやってけるの?」
 熱を警戒して様子を見る田所は、言ってようやくコーヒーへ舌を浸す。わざとらしいほどにあち、と声をもらしすすってみせた。
「うまく、って、どういうことよ」
 聞き返す百々の声は、低くならざるを得ない。
「今週、休みが多かったもんな。会ってんだろ?」
「だったら?」
 尋ねて改め、田所は音を立ててすすり上げる。それはずいぶんと、わざとらい。、だとしてやましいところなどなかったなら百々は堂々、答えていた。
「今日だってその帰りだよ。もうさ、毎日、激し過ぎて足腰立たないくらいなんだから」
 瞬間だ。
 田所の口からコーヒーは霧と吹き出す。
「ぎゃあっ!」
 勢いに百々は隣で跳ね上がり、おっつけその原因に気づいて今度はボカン、脳ミソを爆発させた。
「ちがぁぁうっ!」
 振り上げたトートバッグで、田所の後頭部を張り倒す。
 勢いに、紙コップの中身もろとも田所は吹き飛んだ。
 あっという間だ。机はコーヒーの海と化し、その上へ突っ伏しかけてたところで踏みとどまった田所が、椅子ごとあとじさってゆく。
「わっちゃぁっ」
「やだやだ、もうっ!」
 そこから急ぎ救出するのは、提出用紙と封の切られていない田所のパンだろう。
「やだって、お前が殴るからだろ。マジかよ。俺、これから仕事だって」
 用紙は辛うじて被害を免れていた。だがつまみ上げたパンはびしょ濡れだ。
「だって、タドコロが勝手な勘違いするからじゃんっ!」
 手加減なしの一撃が幸いしたらしい。前方へきれいさっぱり瞬間移動した中身に、田所の制服もまた無事らしかった。確かめ終えた田所が、顔を持ち上げる。
「それはお前が、ハゲ……」
 口に出しかけたところで押し止まった。
「ハ、ハゲだのヅラだの言うからだろ」
 力技での回避も、なおさら露骨でかなわない。
「ちっ、ちっがうよっ。タドコロのばかっ! 今日は階段ダッシュだし、昨日はバスだし、キリンは怒ると怖いし。ここんとこ毎日がめちゃくちゃハードなのっ。そういうことが言いたかっただけなのっ!」
 百々は喚き、そうして喚き返せた今日こそ、百々に言うタイミングは訪れたようだった。
「あの夜だってそう」
 満を持して、百々は反撃ののろしを上げる。
「だいたい人の話を聞かないタドコロが悪い。勝手に決めつけてる」
 指させば、コーヒーまみれのパンから滴は飛び散った。だからかどうか、田所は目を細める。
「何を?」
「あたしとレフは、そんなじゃない」
「へえ、あいつ、そんな名前なんだな」
 返す田所の着眼点はずれていたが、この際、かまう寄り道はこそなしだろう。
「そう。ロシア人なんだって。なのに漢字オタクでさ。やたらデカくて、愛想悪いの。それがたまに笑うとタイミング違ってて、もう、めちゃくちゃ怖いんだから。でもお年寄りには優しいわけ。わけわかんない。なのに仲良くなろうなんてさ、それだけでも大変なんだから。付き合うとかそれどころじゃないよ」
 などとここまで言ったのだから、今頃レフはくしゃみどころか、悪寒を感じているはずだ。
「おかげで人を軽いヤツみたいな目で見ちゃってさ。タドコロ、失礼過ぎる。あたしの方が、がっかりだよ」
「だったらあの朝はなんだったんだよ。やけに仲、よさげだったぞ」
 とはいえ人間、聞かされた話より自分の目で見たものの方を確かだと思うのは当然の成り行きである。
「そんなのバイクから、ちらっと見ただけじゃん。分かんないよ」
 突きつける田所へ百々は返した。
 とたん「バカにするな」と田所の唇は、アヒルと尖ってこう吐き出した。
「俺には分かるわけ。だいたいお前の事、どれだけ見てると思ってるんだよ」
 言葉が百々を赤面させる。
 なるほどそれが、全ての発端なのだから仕方ない。だからして言い分には非の打ちどころがなく、いたたまれなくなって百々はうつむいた。
 もう熱が出そうだ。
 いや、出ているのかもしれないと思う。
「いいって」
 田所が気ぬけたような声で言っていた。
「無理して言うこと、俺も聞きたくないと思ってるから」
 同時に、シアターのどちらかが上映を終えたらしい。止まった映写機に、あれ程うるさかった音は半減する。つまり客の入れ替えが終われば田所の遅番シフトは始まる予定にあった。知っているからこそ慌てたのだといえば、それはあながち間違いでもないだろう。
「ホントは部外秘で口止めされてるんだけどさ」
 百々は切れかけた会話を捕まえなおす。
「あたし今、別にもうひとつ、仕事してるんだ」
 迂回して、もう説明はできそうにない。
「掛け持ちしてることは、支配人も知ってるよ。だから嘘じゃない」
 持ち上げた目でまっすぐと、田所を見つめ返した。
「支配人、も?」
 繰り返す田所はどこかきょとんとした面持ちだ。その顔へ、百々は深くうなずき返す。
「レフはさ、その仕事先の仲間だよ。ストーカー騒ぎの後、そこに顔を出さなきゃいけなくなって組んでる」
 休憩のない遅番は、食抜きで臨むと最後の一時間がきついのだ。そうしてつまんだままのパンを二度、三度、振って滴を切った。ため息交じりで田所へ差し出す。と同時に、どうして自分はいつもレフと組まされているのだろう、と考えた。だがそれが百合草の指示なら、うかがい知ることこそできはしない。
「そこって昼夜関係ない仕事場なんだよね。だからあの日も急に呼び出されて、一仕事終わったら朝になってた。タドコロが送ってくれるっていうのを断ったのは、会う予定とか、そんなじゃないよ」
 だとして、聞き入る田所の表情は冴えない。それでもパンだけは受け取ってくれていた。
「ホントだよ」
 その瞳の奥へ、百々はただ念を押す。
「一晩中、ストーカー、追いかけるのが、か?」
 聞かれてしばし首をかしげた。
「ち、ちょっと、違うけど」
 いや、ずいぶん違うが、このさい、ある雲泥の差は無視するほかないだろう。
「あの朝は、オフィスから送ってくれただけだよ。すごく大変な後だったから、少しはいい気分でお疲れってことにしたいと思うじゃん。タドコロが勝手に勘違いし過ぎるんだよ」
 それでもまだ疑うなら、もう説明のしようがなかった。
 見て取った田所の口から、やがて込められていた力は抜けてゆく。そのままゆっくり、左右へ引き伸ばされていった。だがいつもの表情は戻らない。ただコーヒーまみれの机へ振り返る。惨状をうんざり眺めて、こう言った。
「だったら確かに俺、お前から何も聞いてないもんな」
 目が、百々をとらえなおす。
「百々はつまり期待してもいいってこと、俺に言ってるのか?」
 問いかけた。
 確かに、田所の勘違いを正せばそれは、順当に投げかけらる問いだろう。だからして百々の熱もぶり返す。
「え、えっと。タドコロはさ、ここの先輩で、いろいろ教えてくれて、その、気の合う友達って感じで。でも嫌いじゃないから一緒にいて楽しいし。そんなさ、就職蹴ってまでここに残るとか、って言われても……」
 ままにしどろもどろと喋ったところで、準備のなかった言葉はすぐにも先細り、挙句、拾い上げることさえできなくなったなら、結論へ辿り着くこともまた不可能に終わっていた。
「……ごめん。まだ、よくわかんなくて」
 謝って、そもそも選択肢が二つしかないところに問題があるのだ、と思う。
「だってタドコロも、監督みたいに急だもん」
 言えば、振り回されて閉口していた田所だ。憎まれ口こそかえってこなかった。
 それきりだ。
 互いに黙り込む。
 どれくらい経ったのか、互いが当事者ならまったくもって知り得ない。
 ただ田所が、深く息を吐き出し肩を落としてみせていた。
「俺もやめないし、お前もやめない」
 切り出す。
「なら時間はあるってこと。いいよ、待つから」
 込められた優しさがいかほどか、百々にも十分、伝わっていた。
「そんなの、急げって言われても無理かもしれないよ」
 だのに懐疑的になる自分が嫌だ。
「ま、人の気持ちって、そんなもんじゃね?」
 それもこれもをさらりと流す田所は、おどけて肩をすくめる。そうして「そうそう」と繰り出せば、声はいつものトーンへ戻っていた。
「就職のことは気にするなって。アレ、叔父さんの会社だから。人手が足りないんで、来てくれってやつ。こっち続けたいって言ったら、気が向いたらいつでも声、かけてくれって。って、だいたい俺、今から経理とか向かないと思うんだけどな」
 明かして頭を掻けば、百々の目に背広姿で帳簿をつける田所の姿は浮かんでいた。
「それ、すっごく似合わないよ」
 思わず苦笑いをもらす。
「だろ? あのおじさん、人を見る目がないんだよな。あれで会社、大丈夫か?」
 首をひねる田所は真剣だ。そうして我に返り、腕の時計へ目を落とした。
「やばい。仕事、始まるわ」
 端末もまたその時、百々のトートバックの中で聞き慣れない着信音を鳴らす。耳にしてぎょっとしていた。おおっぴらにできないのだから、とにかく田所を追い出すほかない。
「ああ、ここ、あたしが片付けとくよ。タドコロは急ぎな」 
「お。んじゃ、任せた」
 即座にに言い切る田所に遠慮も、疑うそぶりもなかった。
 結局パンは食いっぱぐれたままだ。それきり田所は、フロアへ姿を消していった。
 いつもこんな調子だったろうか。百々はその後ろ姿を見送る。
「違って、ないよね」
 吐いて気持ちを入れ替えた。急ぎ端末を掴み上げる。そこにメールが一通、届いていることを知らされていた。
「待機って聞いたとこなのに」
 だが開けばなんてことはない。今日はあちこちからお呼びのかかる人気者と、メールはハートからのものだった。百々も「20世紀CINEMA」の帰りに通る繁華街、その一角に立つビルで午後七時に待つ、と書かれている。遅れるな、と締めくくられたメッセージに、眉をピクリ、動かしていた。
「な、なんでだろ。爆弾解除の特訓、とか」
 何しろ蒜山バスの中で、戻った時はイロハを教えてやる、と言われていたのだ。
「遅れたら、爆発するとか?」
 悲しいかな、妄想がもうネガティブな方にしか膨らまない。
 脅かされるまま百々は時刻を確かめる。田所の遅番シフトが始まった今、時刻はすでに六時をまわっていた。だのにまだ、まき散らされたままのコーヒーの後片付けは残っている。もたもたすれば遅れるに違いなかった。百々は弾かれ用具箱へ駆けだす。
 はずが、「とうとう」と言うべき仕打ちは、そこで訪れていた。
 やおら飛び跳ね、百々は悶える。
「あっ、足、()ったぁ」
 こんな調子で間に合うのか。どうやらそれは、攣った足に聞いてみるほかないらしい。