case6#
He said "SO WHAT ?!" -5/10







「裏付けがとれていないだけだ。蜂起の場所は、そこで間違いない! その大一番にこいつを起用するだと? 俺は絶対に認めん!」
 ハートの声が響き渡る。訴えは間違いなく百合草へ向けられていたが、その視線がレフから逸れることはなかった。
「いいか、この件に次はない。失敗すれば蜂起だぞ。それでもお前は責任を負えるのか」
 続けさま吐き出す声は今度こそ、レフへ向かい投げかけられた。だとしてレフには、いつもとなんら変わるところがない。
「あんたは最初からそうだ。図体のわりに肝が小さい」
 聞くや否や、そんなレフの視界を遮り、ハートは互いの間へ指を突き立てる。
「最初から目障りだったのはな、しれっとしたその白いツラだ。そのツラをさげている限り、俺はお前を認めん!」
 言って小刻みに振り、これでもか、と目の前から払いのけた。だとして瞬きひとつしないレフは、むしろハートへ半歩、詰め寄ってみせる。
「ここで働くには、あんたの許可が必要なのか」
 その頬がわずか、堪えた何かに筋張るのを百々は見ていた。
「やってられん!」
 睨み合うハートこそ見逃すはずはなく、吐き捨て百合草へ再び声を張る。
「こいつをオフィス待機にするか、でなければ俺が降りるぞッ!」
「勝手な言いぐさは、あんたの方だ」
 上へ、レフが言葉を重ねた。とたん変わったのはハートの言語だ。なら浴びせられた英語にレフの言葉もまた、呪文のようなロシア語へ切り替わる。それで会話がかみ合っているのかといえば甚だ疑問で、むしろかみ合っていないからこそ口論はまくし立てるが相当となる。果てに互いは飛びかからんばかりと、距離を詰めていった。
 さすがにストラヴィンスキーも、この中央突破だけは無理だったようだ。回り込むようにして向かった柿渋デスクで形ばかりの報告をすませる。おっつけ百合草へこう問いかけた。
「で、どうしたんですか、コレ?」
「ストラヴィンスキー、お前は黙っていろ!」
 目もくれずハートが日本語を投げる。
「そんなこと言われても、困っちゃいましたね」
 苦笑いを浮かべるストラヴィンスキーは、まったくもって慣れたものだ。
 瞬間、大きな音は響いていた。
 百合草の手だ。
 デスクを叩きつけていた。
「いい加減にしろ! ここはお前たちのレクリエーションルームではない。やるなら他でやれ!」
 百々の体は跳ね上がり、一撃にレフとハートの口論はようやく止む。牽制するような視線を残しながらも、どうにか互いの距離を取りなおしていった。
 百合草はそんな二人を一瞥したきりだ。何事もなかったかのようにストラヴィンスキーへ向きなおる。
「蜂起の件で、重要な連絡事項が一つ」
 切りだされてストラヴィンスキーが、デスクの前で姿勢を正していた。向けて百合草は、実に淡々とこう告げる。
「当局は、アカデミー賞授賞式会場をリーダー蜂起の現場と暫定。当日の特別警備態勢を決定した」
 とたん百々へと振り返ったストラヴィンスキーの表情こそ、ガッツポーズをとりそうな勢いに満ちてる。しかし百々が応じたかと言えば、そうではなかった。それはまたひとつ、最悪の仮説が逃れがたい現実に変換された証拠だたからだ。百々はただ、感じ取って全身を強張らせていた。
「もちろん蜂起については、これまで同様、一切が公表されない。会場はもとよりVIPの集う場所だ。ボディーチェックや一帯の交通規制は当初より徹底されている。加えて事情を知る人間が警備に加わる方向で、現在、調整が進められている」
 と、どのセンテンスがひっかかったのか、思い出したようにハートがレフを盗み見た。なら理由を明かして決定的な事実は、つまびらかとされる。
「その事情を知る人間として我々が加わることとなった」
 刹那、これでもか、とレフを指さしたのはハートだ。
「俺は、認めんッ! こいつは必ず他のやつの足を引っ張る。現場を混乱させる可能性があるッ!」
 否定しない百合草は、吐き出した息と共にアゴをひとなでしている。前のめりだった体はそれきり背もたれへ倒されると、埋もれるように深く沈み込んでいった。その姿は百々の目の中で、先ほどの一喝が嘘のように小さくしぼんでゆく。
「予防、先制はもはや無理だと、被害管理に重点をおいて上は話を進めている」
 そうして聞こえてきた声には、察して余りある疲れが色濃く滲んでいた。
「ゆえに対処策の検討と並行して、責任の所在を求める動きもなくはない。確かに誰かが詰め腹を切らされたなら、通る建前にスムーズと動く話もある。ならば見切り発車なこの件は、空振りに終われば事後、責任を負わせるにうってつけの失策というわけだ。机上の空論で組織が動くからくりは、そこにある」
 その声が明かす力学は、巷にあふれる平和に正義とはひどくズレたものだった。吐き出せたからこそいつも通りは、百合草に舞い戻ったらしい。
「だが現場はそこで間違いないと、わたしも考えている。やり玉に挙げられようが賭ける価値はあると判断した。リーダーは当日、間違いなく会場に現れる。その瞬間に前回同様、遊ばせておける人員はいない。参加させる理由はそこにある」
 ハートの目が本気か、とことさら目を丸くなってゆく。
 言い切った百合草は分かっているのか、と椅子の深い位置からレフへ目配せを送ってみせた。
 なら頑なと答えて返すレフのそれは、常套句だ。
「逃がすつもりはない。それだけだ」
 瞬間だ。
 ハートの腕がレフの胸ぐらを掴み上げる。
 目の当たりにして百々は息をのみ、ハートは声を絞り出していた。
「……それは仕事で言っているのか、それとも私情でいっているのか」
 浴びせられたレフは、確かにいっときたじろいでいた。だからといってそれが腕力に対してでないことくらい、百々にもすぐ見抜けている。
「は、中途半端はどいつだ。それで怪我をするのはお前だけにしろ! 私情に走っていつ反対方向へ走るやもしれんやつに援護される方の身にもなれ! いや、それで俺たちがどうにかなるなら、それまでだ。だがそのせいで世の中が傷つくとなれば、話は別だ!」
 言い切ったハートは、突き飛ばすようにしてレフの体から手を離していた。
 と、百々の背後でドアは開く。おそらく何も知らずに入ってきた自分たちもこんな具合だったに違いない。アカデミー賞会場警備の話を聞きに来たのだろう。隙間から、ひょっこり乙部は顔をのぞかせていた。
「お前より百々の方が、よく分かっているっ!」
 見向きもせずにハートは声を荒げ、
「何? 褒められてるの?」
 問う乙部に、百々は思わずつんのめる。
「んなワケないですっ!」
 どうにか突き返せば、レフが百々へといまいましげな視線を向けた。
 だとして百々はあのとき、非難するつもりで言ったわけではない。「中途半端」は単に己へあてた言葉にすぎず、そもそもそのとき非難できるほど何かを知っていたわけではなかった。
 だが一方であの出来事は思い出されてならない。でなければおそらくレフは、ああもやっきになって白黒をつけようとしなかっただろう。階段室で追い回された一部始終は、レフ自身がどこかで感じ続けてきた引け目の裏返しだったのだと思い返す。自分は「危険」に「チームワーク」をわきまえている。ああも徹底的にやり込めたのは、そう証明しなければ落ち着かなかった己のうしろめたさのせいで間違いなかった。
 だとすればさせた百々はまさにハートが称えたとおり、期待のストッパーだろう。ストラヴィンスキーが教えたように「おもり」で間違いないと思う。そう、「お守り」でなく、飛び出すレフを規制するための「重り」だ。
「ふん、好きにしろ。俺は降りる。もっと話の分かるやつを雇え」
 吐き捨てるハートは、果てにきびすを返している。
 それこそ好きにさせるつもりか、百合草はそんなハートを止めようとはしなかった。
 様子にまさか、と百々は目を細め、ままにドアへまっすぐ歩いてくるハートをみつめ返す。
 傍らではやれやれ、と言わんばかりに退く乙部が、ハートへ道を空けていた。
 ままに行かせてしまえば、この件全てに携わった人材に代わる誰かを用意することこそ、できやしない、と百々は思う。何しろアカデミー賞授賞式までもう二週間しかなかった。運よく見つかったとして、土壇場での交代劇に必要なチームワークこそ望める気がしない。
 それでも頭が冷えたら、ハートは戻ってきてくれるだろうか。
 考えた。
 たとえそうだとしても、レフはレフのままだなのだ、と気づかされる。話は元へ戻るだけで解決せず、解決しなければ大一番に太刀打ちすることも不可能だった。だのに状況はもう無理だと言っておれぬところへさしかかっており、極まる思いがそのとき百々を突き動かす。
 退いた乙部と立ち位置を入れ替わっていた。
 そうしてドア前を塞いで取ったポーズは、絵に描いたような仁王立ちだ。
 おかげでハートの足も止まる。向かい合ったそこから最初、ワンボックスカーの荷台から食らわせたあの視線を百々へ投げた。
「どけ」
 言われたところで動くなら、こんなことなどしていない。
「お店で言ったこと、お前はいい仕事をしてるって、今でも思いますか?」
 百々はただ口を開く。
「それともやっぱり、あれはからかっただけですか?」
 確かめた。だが問う意味をつかみかねているのかイエスかノーで迷っているのか、石像のように動かなくなったハートに答えて返す気配はない。
「あたしを、信用してもらえますか?」
 待ちきれず、百々はズバリ、突きつける。ならハートの分厚い唇は、そこでようやくこう動いた。
「技術は信用できん。だが、心根は値する」
 事実なだけに、案外、刺さる。
「ひ、一言、多い……」
 だがへこんでいる場合ではない。百々は踏ん張りなおした。
「多いけどっ! だったら、あたしがレフを見張りますっ!」
 発言に、とたん誰もが何を言い出すんだという顔をしている。だとして引けやしないなら、百々は全てを振り切った。
「防弾ジョッキだって着るし、今日から走り込むっ! レフが勝手にどこかへ行こうとしたら引きずられたって行かせないよう、ふ、太るっ!」
 というか、その努力はいらない。
「とにかくあたしがレフを見張りますっ! 自分の言った事に責任持つなら、あたしを信用してくれるなら、降りるとかはずすとか、今ここで取り消して下さいっ! て言うか、取り消すまで通さないっ! じゃなきゃ、革命がおきちゃうっ!」
 もう、ありったけの力で通せんぼだ。めいっぱい両手を広げる。何しろ他に何もできない。できることと言えばハートにストラヴィンスキーがお墨付きをくれたこれだけで、そして何より今、必要とされているものがソレだった。しかも当初と目的はズレているにせよ百合草の狙いもその辺りにあると聞かされたところである。これでハートも納得してくれるに違いないと思う。いや言った張本人がハートなら、納得せざるを得ないはずだと信じて真っ向、百々は勝負をかけた。
「お、かっこいいね」
 目にした乙部が眉を跳ね上げる。その視線をハートへち持ち上げた。これは見ものだと、素人小娘にここまでいわれたあんたはどうするのか、と笑いかける。
 食らったハートはこめかみを、堪えたナニカに痙攣させていた。かと思えば巨体はふいに揺れ動く。百々の足ほどもある腕は高く持ち上げられていった。
 振り払われる。
 思い、百々は目を閉じる。
 だが拳も何も振ってこない。
 ただ吸い込んだ息を吐きだす荒い呼吸音だけが、降る。
「聞いたなッ」
 怒鳴る声が、レフへ飛んでいた。
「貴様がドドの顔に泥を塗るようなことをしたなら、今度こそ、俺はお前を殴るッ! 覚えておけッ!」
 恐る恐るだ。聞こえて百々は、まぶたを開いていった。なら伸びていたハートの手は、そんな百々の頭を掴んで道をあけさせる。それが力づくかといえば、そっと百々を押しのけただけだった。


 そして物事の後先は、全てが済んでから考えるからこそ、辻褄も合うのだった。
「というわけで、支配人、二十二日から二十五日までお休みいただきます。あは」
 無茶なお願い休むに似たり。めいっぱい百々は笑う。なら見つめて返す水谷の顔は、とにもかくにも素っ頓狂となる。
「ええっとですね、百々君。と言うわけのところ、まだ聞かせてもらえてないんですけれども」
「あ、あれぇ? あたし、言ってませんでしたっけ? おっ、おっかしーなぁ」
 などと、話せないことが前提なのだから、とぼけるだけでも一大事となる。
「二十五日までとなると、アカデミー賞発表直後までですねぇ。万が一を考えると、その日だけでも出てきてほしいんですけどねぇ」
「あ、そでしたか。そ、そでしたねぇ」
 ついに始まった映画「バスボム」ロードショー初日。事務所には、膝を突き合わせて言葉を交わす、そんな二人しかいない。逃げようにも逃げられず、言い訳に窮した百々は最終手段に打って出た。
「そ、その、親戚のおじさんが、なく……」
 が、その手こそ、予定としては使えない。
「なっ、なく、亡くなりそう、なんですよねっ! その日に。あはあはあはあは」
 身内の不幸をこれでもか、と笑い飛ばした。
「そうですか」
 いや、納得するのか。
 見て取った水谷の溜息は、とにかく大きい。
「すみません」
 このさい百々も、頭を下げておくことにする。だが次に水谷の口から出た言葉は、こうだった。
「近頃、あちらさんへ電話しても愛想がないものですから、何かと大変な局面を迎えているんだろうなとは思っていましたが。そういうことですか」
 それは下げた頭も跳ね上がる顛末だった。というかこの人は一体、知らない間に何度、オフィスへ電話をかけているのか。思えば百々の頬は引きつり、前で水谷の瞳はキラキラ、輝き始めた。
 来る。
 百々が身がまえたことはいうまでもない。
「という事で百々君、休みにする代わりにその話をですね」
「支配人、それは部外秘ですので、私の口からは一切言えません」
 まさに愛国心だ。百々はそのきらめきへ向かい、迎撃のミサイルを放つ。命中精度は高いのであ。食らった水谷はがっくり、そこでうなだれていた。
「百々君も、もうすっかり向こうの人みたいですねぇ」
「すみません」
 謝るほか手だてがない。
 前において参った参った、と笑う水谷はお気楽そのものだった。だが百々は笑えずなお、口をすぼめてゆく。
 何しろテロが始まればここも攻撃対象になるはずなのだ。事態は水谷こそ知っておくべきもので、だというのに事実はその時が訪れるまで明かされることがない。水谷が笑えば笑うほどちぐはぐは滑稽を通り越し、百々の目に救いようのない悲劇と映った。いたたまれなさはこみ上げて、それでも言えぬからこそ咄嗟に言葉はこう飛び出す。
「支配人にとってここは、『20世紀CINEMA』って何、ですか?」
 などと考えれば考えるほど、それ陳腐な質問だった。だが咄嗟だったからこそ、向けた顔は深刻過ぎたらしい。水谷の笑いはそこで、ふつり途切れる。
 空いた間で、語れぬ語りを察してくれたらしい。だとするならさすが水谷というべきで、水谷はしばし閉ざしていた口を開いてやがて、ああ、と百々へ答えて返した。
「ここは、わたしの大事な作品です」
「へ?」
 突拍子なさに、百々は瞬きを繰り返す。
「いや、若い頃、少しの間だけですが、わたし、作る側にいたんですよ。制作の一人なんかでね」
 補足する水谷は、照れたように後頭部を掻いてみせた。話に百々は跳ね上がって驚き、制して水谷は伸ばした両手でまぁまぁ、とあおぎなだめる。
「最初はそこそこでしたが、後は興行的に言ってもこれが大失敗で、誰も知らないような作品がほとんどです」
「でっ、でもっ!」
「まぁ、最初のひとつふたつは、誰でも無心に楽しいと思えるモノが出来るものです。創る喜びに浸れる夢のひと時です。けれど仕事ですからね。結果を残し続けなければなりません。そのうちに何を撮ればウケるのか、どうすれば注目されるのか、そんなことばかりにずいぶん振り回されましてね。挙句、何が撮りたかったのか分からなくなって、ちょっと荒れた後に、ああ、わたしは才能がないんだなぁと、自分の限界を感じてしまった、というわけなんです」
「それで、こっちへ、ですか?」
「本物のクリエーターだったなら、悩み続けるべきだったわけですけれども」
 答えた水谷の笑みは珍しくもニヒルだ。
「そういうわけでスクリーンと言う場所は諦めましたが、おかげで今『20世紀CINEMA』と言う作品の制作に携わることができています。働いてくれているスタッフはだから、撮影クルーで、大事なキャストかな」
 確認するように空を仰ぐと、誰ともなしにうなずいてみせた。その顔を百々へと向けなおす。
「まぁ人間、その気になるだけでは何も変わりませんけど、その気にならなければなかなか変われないことも事実です。映画の面白いところは見聞を広めたり泣いたり笑ったりだけじゃなくて、見た人のどこかに響いてその気にさせてしまう。知ってしまったせいで、その人の世界を変えてしまうところにもあると思うんです。わたしはそんな感動を残したかった。虚と実をつなげる、ね。その点では本編だろうと劇場だろうと変わりはないと思っています。現実、皆さんにはバイトも社員もないほどの仕事ぶりに助けられて、いいものが撮れていると実感していますし。ここは、20世紀は、わたしにとってそんな場所、かな」
 間違いなし、と確かめた水谷の頭が、またひとつ揺れ動く。そうして思い出したかのように両の手を、ポン、とヒザへ打ちつけた。
「という事で、そろそろそ撮影に戻らないと、まずいまずい」
 尻を上げる。仕草がそそくさと見えるのは、話が過ぎたと照れ隠しのせいか。それきり事務所を後にしかけて、思い出したように百々へ背を反らせた。
「休みの件、なんとかしましょう。また、あんな騒ぎが起きるのも困りものですからね」
 笑みはそこから投げかけられる。
「でも例の話が聞けないのは残念だなぁ」
 くどくも惜しんで天井を仰ぐと、ははは、と大きく笑い飛ばした。
 一部始終を眺めれば眺めるほど、百々はそれどころではないんだ、と言いだしそうになる。できずにおればきびすを返した水谷が、フロアへ向かい靴先を繰り出していた。
「支配人っ!」
 百々はその背を呼び止める。
 振り返った水谷は、いつもと変わらぬ水谷にだった。
 向かって百々は声を張り上げる。
「絶対、最後まで、最後まで撮って下さいっ! 絶対、最後まで撮らせてあげますからっ!」
 などと、これまたバカげたセリフに違いない。だからしてさすがの水谷も、しばしあっけにとられたような顔をする。その時間がどれほどだったかは分からない。だが砂糖を入れたホットミルクのような笑みは、やがてそこに淡く浮かんでいった。
「そうですね。よろしくお願いしますよ」


 取った休みに周囲からのブーイングは相当で、かいくぐりながら過ごした十日余りは予想通りと大忙しの日々となっている。何しろ「バスボム」は平日でも毎上映回がほぼ満席で、土日など立ち見もでるほどの反響だった。乗じて数日など、あっという間のうちに過ぎてゆく。
 そうして二十一日の夜、人足の途絶えた「20世紀CINEMA」の正面扉を、百々は最後の一仕事と施錠した。
 ほんの数日だが、ここへは戻らない。
 思いを胸にテナントビルを後にする。
 帰り道は途中まで、またバイク通勤の田所と一緒だ。
 告白の返事も何も、肝心なことは話せていない。まるで知っているかのように田所も、休む理由すら深追いしてこなかった。それをぎこちないと感じたのは思い過ごしか。おかげで途切れそうになった会話を懸命につないで百々は、映画「小熊のチェブ」のことを聞いている。
 さてこの映画、ファミリー向けの動物映画ととらえられがちだが、小熊のチェブこそが監督で、花は監督の撮影したフィルムか、もしくは観客たちだという見方がマニア間での定説だと田所は解説していた。同じ世界に住みながら双方に接点のないところが問題作らしく、だから悲しいと、泣ける映画だと、田所はつけ加えていた。
 きっとレフと話が合うよ。
 百々は思ったが、それもまた口にしていない。
 口にしないまま、いつものように田所と別れた。
 ここでまた会うためなら、惜しんだ方がいいと今でも信じている。
 そしてまたあの木戸を開くためならと、夜空を見上げた。
 その暗い空へかけた願いは単純だ。
 それでも全ての楽しみが、いつも人々へ門戸を開き続けるように。
 ただそれだけだった。