case6#
He said "SO WHAT ?!" -7/10







 しこうして目の前に伸びる、「メイヤード」の長い廊下。
 あれきりレフは口をきかない。
 怒っている。
 感じ取らずにはおれないからこそ、百々もしょげて黙り込む。
 事実、弄んだ話題はセンシティブを極め、なおかつ陰口さえ叩いたようなものなのだから、ぐうの音も出ない。
 おかげで空気は重さを増すと、すぐにも重いに悪いを越えて未知の領域へ突入してゆく。それこそ精神戦と思しき凌ぎあいを展開すると、なけなしの休憩時間などただの拷問タイムへ変えつつあった。
 のみならず、放っておけぬ事案もまた目の前に迫る。


「あ、あの、あたし一応、嫁入り前なんですけど」
 ドアへカードキーを通すレフへ、百々は恐る恐る問いかけていた。なら目も合わせないレフの返事は、こうだ。
「俺もだ」
 戦慄するのは、その言いぐさをどう処理していいのか分からないせいに他ならない。
 とにかく笑わねば。
 笑うところだ。
 きっとそうに違いない。
 百々は己へ言い聞かせる。
 このさい間合いなどかまわなかった。無理からブ、と百々は吹き出し笑った。
「笑うな」
 一喝されて伸び上がる。
「って、ココ、笑うところじゃん!」
 捨て置くレフはドアを引き開け、もう部屋の中だ。
「てか、お嫁さんは女の子だよ。だからここ、笑うところなんだって。なのに笑っておかないとレフ、全然、面白いところないよ。てか、あたしの知る限り、これっぽっちもないよ。それ、すごく損だよ。わかる? コレ、重要なことだよ」
 言い含めて、その背を百々は追いかけた。
 引き連れ歩くレフは水回りのブースにその奥、足元に置かれたテレビが典型的なベッドルームの明かりをつけてまわる。明るさは目に染みて、百々はようやく我を取り戻していた。追いかけ回した足もそこで、ようやく止まる。
 仕切りよ生えて来い。並ぶベッドを前に百々は本気で念じていた。だがそうも都合のいい奇跡こそ起きはしない。
「それで終わりか」
 レフだけが問い返してくる。
「お、終わりです、けど」
 言えばレフは見向きもせずに、手前のベッドへ歩み寄っていった。
「窓際に問題はあるか?」
「べ、別に。どちらでも」
 胸ポケットから端末を抜くと、ベッドへ投げ出す。ぼすん、と音を立てた端末にさえ追い立てられているような気がして百々は、不服はない、と態度で示し、急ぎ己が寝床へ回り込んでいった。ならジャケットから袖を抜いたレフはそれもまた、ベッドへ投げ出す。
「何もなければ、いったん十時に端末が鳴る。俺がいない間に鳴ったなら、動く前に必ず呼べ。定時以外に鳴った時は必ずだ」
 さげ続けた物々しいホルスターを下ろして言った。いうまでもなく、それは特注のモーニングコールに違いなく、定時以外に鳴るなど緊急事態以外、考えられない。このときばかりは百々も気を引き締めなおす。
「了解」
 聞いてレフが、手を腰へあてがった。他に言っておくことはあったろうか。言わんばかり、しばし黙る。
「寝すごすな」
 締めくくるものだから、今度こそ冗談に違いなかった。
「だったら起こしてくださいっ!」
 百々は歯をむき出す。だが、期待した反応こそ返ってこなかった。レフはただ、大きなため息だけを吐き出す。
「疲れた。寝る」
 言葉に、レフでも疲れるのか、と思わされていた。
 うちにもきびすを返すレフは、それきり浴室へ消えてゆく。
 姿が見えなくなっただけでほっとするなど、相当だ。泥のようではなく、もう泥だった。百々は疲れにまみれて己がベッドへ倒れ込む。
「うぃ」
 そのさい変な声が漏れるも致し方なし。
 そもそもこんな状態で今晩の大舞台までもつのか。不安は過り、考えるだけ無駄と疑念の箱へ鍵つきのフタをした。
 着替えられるはずもないなら着の身着のままである。打った寝返りで、隣のベッドへ背を向けた。あらゆることから解放された自由の園へ逃走すべく、勢いよく頭からシーツをかぶりマジックワードを吐く。
「みんなぁ、おやすみぃ」
 とたん、激しい物音は部屋に響いていた。何かしら破壊されたような、崩れ落ちたような音だ。
「なにっ?」
 弾かれすぐさま跳ね起きていた。シーツを巻きつけ、百々は振り返る。
 前へレフは姿を現していた。その手にはタオルが握られ、上半身は何も身に着けていない。様子に少なからずぎょっ、としていた。
「なっ、な、なんですかっ!」
「狭い」
 問えばたった一言、返される。
「は?」
 だから文章で答えてくれ、と切に願うが、しかしレフはそれ以上、何も語らずただ自分のベッドへどっか、と腰を下ろしていた。握っていたタオルを持ち上げたなら、己が体を念入りにこすり始める。
 光景に何の儀式か、と百々が目を瞬かせたことはいうまでもない。しかしみつめるほどそれは、古式ゆかしきあの健康法を百々の脳裏へ蘇らせてゆく。
「それ……、かんぷ、まさつ」
 なら確かめざるを得ない、これはいきさつだろう。
「で、張り切って、風呂場でぶつけた」
 「だったらどうした」
 憮然と返すレフに引け目はない。
「い、今、やんなくてもぉ」
 むしろ百々の方が萎えてくる。
「今日は移動で時間がなかった」
 つまり知ることとなる、昨日も一昨日も毎日やっている、という事実。別にかまいはしなかった。漢字検定一級取得を目指している地点で何でもありだと理解している。毎日の乾布摩擦くらい屁でもなかった。だが状況が状況だ。
「そういう問題じゃないよぉ。あたしだって寝たいのにぃ」
「体にいいと教わった」
 抗議して返せば、レフは言い切る。いや、それほど病弱か。つっこみたくなったが出来ず、百々はしち面倒くさいことを教えたのは誰だ、と心の中で呟いた。謎はすぐにも、あの禁句にするり解けてゆく。
「……もしかして日本のおばあちゃんに、教わったの?」
 レフの手がピタリ、動きを止めていた。
 何か言ったか。
 心の声は確かに聞こえて、おっつけチラリ、投げた視線が百々を刺す。
「て、てっ! お、思うじゃん。普通っ!」
 食らってなお、平然としていられたなら強者だろう。
「おかしいなら笑え。大事なんだろう」
 百々はうめき、レフはその顔へ吐き捨てた。
 皮肉に、百々の息は止まり、続く言葉こそ、会場で言いそびれたものに違いないと思う。
「店でどう吹き込まれたかは知らないが、つるし上げて盛り上がったか?」
「そ、そんなじゃ、ないよ……」
 言ってはみるが、言い切れない弱さが百々にはあった。 
「どうせ誰もが知っている話だ。自分の噂も聞き飽きた」
 知っているかのようにレフはつけたし、それきり日課を再開させる。動作は実に淡々としていて、様子でまさに、話は終わりだと突きつけているようだった。だとして、こんなところで終わりにされてかなわないのは、百々の方である。
「ハートがさ」
 急ぎ切り出していた。
「ハートが知らずに危ない橋をわたれるやつがいるかって。あたしにも知る権利はあるって……」
 口にした端から言いわけくさいと、気づきもする。
「そうか」
 だからしてレフもさらり、かわすと相手にしようとしなかった。
「死活問題なら誰もが神経質になる」
 それでいて、矛盾しかない正論を投げかける。
「それでもここがいいわけ?」
 百々は思わず確かめていた。なら常套句は、ここでも繰り返される。
「逃がすつもりは、ない」
 口ぶりに、百々がむっ、としたことは否めなかった。そんなの理由にならない。思いさえする。
「あたしだって……」
 だからして口は勝手と動き出していた。
「あたしだって帰ってまた、20世紀でバイトしたいよ。そのためにあたしも、絶対逃がしたくなんかない。技術は信用できないが心根は値する、ってハートに言われたじゃん」
 思いのまま語れば自然、語気は強まり、唇もまた尖る。
「けど心根だけでテロリストとなんか戦えっこないから、あたしこそ影で色々言われてると思うよ。なのに見張るって言ったのが通ったことは奇跡でさ、浸ってぼんやりしたくないから自分の事、みんなが納得して誰も怪我しない方法担当、とか考えることにした」
 それは鼻で笑われそうなう役職に屁理屈だった。だが笑われてもいいと明かせるほど、本気の本音でもあった。
「だっていくらレフのお荷物が役目でも、そのまんまは、やっぱり辛いもん……」
 そうして百々は、かぶっていたシーツから抜け出す。ベッドの上で座りなおし、続く言葉に間違いがないことを、今一度、自分自身へ確かめた。やはりそうとしか思えないなら、口に出すことにする。
「仕事でも、 私事ワタクシゴトでも、捕まえてくれたならそれでいいって、あたしは思ってるよ。何も、おばあちゃんのこと聞いて信用できなくなったから見張る、って言ったわけじゃない。捕まえてほしいから、みんながここへ来れるようにしたかっただけだよ」
 確かめたそれは公言したその後も、なんら百々に後悔させることがない。
「だいたいみんながどんな風に言っても、あたしみたいなのが同じようにレフのこと言えるはずないしさ。それはレフが一番、分かってるはずじゃん」
 だがレフは何ら返してこなかった。
 こんな時に、スネるのか。
 閉じた口も、への字に歪んで不満をためゆく。
 しかもこんな自分を相手にしてかと思えば、子供じみた態度にはもう、腹立たしさしか湧いてこなくなっていた。
「って、仕方ないじゃんさ。レフが勝手なことしちゃうんだもん」
 ついにそれは堰を切る。
「その上チーフ室で喧嘩まで始めるんだよ。噂に陰口が出るのも分かるような気はしてる」
 つまり正確無比と次々にだった。埋め込まれた地雷を踏み抜く芸当は、披露される。
 お前はすでに、死んでいる。
 気づいた百々の脳裏に名文句は過り、それきり四散などしたくなければ、あとはもう必死のフォロー以外、なくなっていた。
「なっ、なんてさっ、とにかくみんなが納得して誰も怪我しない方法担当としては、ここへ全員、連れて来ることができた以上、次は全員、無事に帰ってもらうことが使命なんだよねっ、ねっ、ねっ!」
 必死が過ぎた端々へ、拭えぬわざとらしさはこびりつく。
「そ、そのためにも振り払って独走はなしだよ。ここは担当の言うこと、ちゃんと聞こうねっ!」
 良い子とお姉さんとの約束だよ。言わんばかりに、あはは、えへへ、おほほ、うふふ。百々は笑った。いや、笑得ない状況に瀕しているからこそ必死の思いで笑い飛ばした。
 が、レフに何の反応もない。
 ないからこそ、百々はレフの分まで笑いに笑った。
 ままに放置されて、完全に切り上げるタイミングを見失う。引き際を失った無理矢理の笑いほど見苦しいものもなく、もう修羅場だ、様子は地獄絵図と化す。
 果てに、百々はむせていた。
 むせていることにまたむせて涙目、一人ベッドでのたうち続ける。
 果たして己は何をしているのだろう。
 過ったところでその声は聞こえていた。
「バーブシカは」
 レフだ。
「はひ? ば、ばおばぶ?」
 いや、それは木だ。
「ロシア語が話せない」
 乾布摩擦をやめたレフの手は、いつからかヒザの上にあった。
「話せたとして、話したくなかったからだ。寂しい人だったと思い出す」
 言う声は、誰が話しているのかと疑うほど淡々としており、だからして百々には最初、何が始まったのか理解することが出来ていなかった。
「だから俺に日本語を教えた。週末の話し相手は大事な役目だ。バーブシカはそれを楽しみにしている」
 そこでようやく、咳はおさまっている。おかげで巡り始めた血に、百々はようやく「バーブシカ」が祖母であるらしいことをくみ取っていた。
「入隊を決めたのは祖国に貢献するためだ。紛争地へ赴きたいわけじゃない。だが兵隊はよくないとバーブシカは止めた」
 くだりが早くも、嫌な予感を過らせつつある。
 だが百々に口を挟める余地はなかった。レフもまた拒んで記憶の中へ、埋もれてゆく。
「俺は自分を通した。おかげで話し相手をなくしたバーブシカは誰にも会わず、家にこもった。年寄りのささやかな楽しみを奪った。そうなることは分かっていた。悪いことをしたと俺は思った。なら代わるものを探すことも役目だ。夏で表は明るい。美術館なら言葉もいらないはずだ。とりわけ庭が美しいとも聞いていた。気晴らしにはうってつけだと、俺は思った」
 そうしてやがて、像はひとつ、くっきりと百々の中に立ち上がってゆく。
「俺はバーブシカに、美術館のチケットを贈った」
 忘れはしない。
 ハートがまた、やつが野っ原で火を消している間、ばあさんは庭園美術館の爆破事件で宮殿施設ごと焼けて死んだんだ、と繰り返してみせた。
「そこで SO WHAT のテロに遭った」
 違わずレフも、それをなぞる。
「年寄りの言ったことには、従うものだ」
 声は鉛のように重かった。
「年寄りは、大事にするものだ」
 部屋の奥から凛としたあのたたずまいで、バスの彼女が百々を見つめ返している。
 遮ると、捻じれたレフの背は振り返っていた。薄い色の瞳が代わりに、百々をとらえる。
「正しい話はこれが全てだ。最大限、協力はする。覚えておけ」
 逸らすことなど、できはしなかった。
 だからか。
 見つめ返したまま、百々はひとりごちる。
 バスの彼女に無理強いしなかったワケも、逃がさないというあの口癖も、この日課も、漢字検定さえだろう。妙ななこだわりの全てはつまり、守らなかった言いつけへの償だ。だからこうも振り回されてやまない。捨て去り逃げたとみせつけて舞い戻ったあの主人公のように、最後の最後で選択を誤る危うさを、今もなおちらつかせる。
 嫌い、ハートはその胸倉をつかみ上げていた。
 どれほど主人公を小馬鹿にしたところで、引かないレフはまるでそのことに気付いていない。
 ならきっとまたどこかで飛び出す。それがどういう場面なのか百々には分からなかった。だが間違いないことだけは感じ取れる。そして自負する、みんなが納得して誰も怪我しない担当者であればこそ、その先にのぞく結末に、とてつもない危機感を覚えていた。
 もっと冷静にならなきゃ。
 ハートが言うとおりだ。傷つくのが一人だろうと、世間だろうと思いは変わらない。
 いや、と百々は思いもしていた。
 むしろその冷静さを取り戻すためだった。
 タフなら笑え。
 「わかった」とうなき返すのを待つ白い顔に、唱えていた。今夜にも闘わなければならないのだ。逃さないつもりなら、「それっぽっちのこと」と、笑い飛ばして冷静になれ、と思っていた。
  もちろんそこには人の死が、それも身近な者の死がかかわっていることはよく分かっている。そうも容易く笑い飛ばせないことくらい、重々承知だった。
 けれど、だからこそだ。
 タフなら笑えと思う。
 強いることが残酷だろうと、今は同情も追悼もクソ食らえだだった。思い切り蹴り飛ばして、何の力にもならない過去から距離を取れ、と念ずるままにレフを睨み返す。
 でなければ、振り回されて踏み外す未来こそ取り返しがつかなかった。漢字検定も乾布摩擦も出来なるやも知れないほど、取り返しがつかなかった。おかげでそのとき、百々の腹もすわる。
 全員を無事に帰すためにも、そして世の楽しみを守るためにも、今すぐにだ、今すぐあたしがその湿気た顔を笑わせてやる。憤るままに決意していた。
 だからして手だてを探し、辺りうかがう。見つけてすぐさま、これでいいのかと感じたなら、後押しして囁くハートに「白い面はぶん殴るに限る」と囁かれていた。
 なら、もう迷いは消え去る。レフを睨み返したままだ。百々はそぞろに手を伸ばした。企んでいるのだから予告なんてしてやらない。使い切れぬほど常備されたホテルの枕を掴み上げるが早いか、レフへ向けて投げつけた。
「なんだ」
 食らったレフが憮然とこぼす。
 だとして理屈などないのだから、百々には答えようがない。代わりとばかりに二つ目を投げつけた。枕は真っ向、食らったレフの体で跳ね、レフはなおさらむっ、としてみせる。
 真面目くさったその顔は、企んでいる百々であればこそ、笑いを誘う。ままに三つ目の枕を手繰り寄せた。握りしめたなら百々は、跳ねるようにベッドの上へ立ち上がる。
「なんだって、決まってるじゃんっ!」
 指さえ突きつけ、言い放った。
「修学旅行の夜っていったらさ、枕投げだよっ!」
 ついてゆけずさすがのレフも、見上げたままで間抜け面を晒してみせた。
「スキありっ! でぇやぁっ!」
 ここぞでめがけ、百々は枕を投げつける。
「お前は人の話をきいていたのかッ?」
 避けてレフは身を縮め、その体で枕は再び跳ね上がった。
「わけがわからんッ」
 つかんで百々は再び振り下ろす。
「聞いたっ! 覚えたっ! だから、ものすごくやりたくなったぁっ! せぇいやぁっ!」
「どういうッ」
「どうもこうも、なぁいっ! とぉりゃぁっ!」
 などと繰り返すほどに上がるテンションが、たまらない。止まらぬままにベッドを飛び下り、百々はレフのベッドの枕へも手を伸ばした。気づいたレフがそこまでやるか、と阻止にかかるが、動きはまったくもって間に合っていない。
「たりゃぁっ! てやぁっ!」
 めがけて右に左だ。百々は気合いもろとも投げつけた。ならこの近距離で一投目を避けるレフの反射神経は、さすがだろう。だがしかし避けきれなかった二投目を、ついに顔面へ食らっていた。その時うぐ、だか、むぐ、だか、くぐもった声は確かにもれて、枕はぼとり、剥がれて落ちる。 短い前髪を潰したレフの顔はそこにのぞいて、百々をきゃは、と飛び跳ねさせた。
「その顔、もう最高っ! 今の写メ、写メだよっ! みんなに配信だよっ! なんたって噂のレフアーベンだもんねっ! いやー、もう一回、見せなさいっ!」
 豪語すれば小鼻も広がる。なら無色透明だったレフの目へ、やおら熱は浮き上がった。そうしてふん、と鼻から吐き出した息こそ、自嘲の表れか。何かが吹っ切れたとすればその時で、示して背から怒りのオーラか反撃ののろしか、確かに何かを立ちのぼらせ始める。
「人の大事な話を聞かない、そのバカ面こそ……」
「おや、やる気、でましたか?」
 分かってそそのかす優越感がもう、たまらない。
「配信しろッ」
 言い終わるか否や、掴み上げられた枕は百々めがけ飛んできた。
「ぎゃぁ。って、痛くなぁいもんっ!」
 交戦開始。
 食いながらも百々は己のベッドへ身をひるがえす。
「このトンチンカンがッ」
 背へレフはヤケクソとまた枕を投げつけた。
「ひっ、ひぃ。大事な話をするときは、ちゃんと相手を見極めなさぁいっ!」
 避けて百々は伏せたベッドの向こうから、べろべろばーで手を振り返す。
「ウル、サイッ。バカ面ッ」
 顔で枕は弾け、掴んで投げ返し、入れ違いで飛びくる枕にまた顔面を弾かれた。ならお返しだ。サイドにオーバー、アンダースロー。右へ左へ。上から下へ。転がる枕を飛ばしに飛ばす。
 おかげで叩きつけられたカーテンが揺れ動き、食らったテレビが迷惑そうに角度を変えた。プッシュ式のクローゼットなど勝手に開いて中身を晒し、電話横のメモにペンも跳ね上がったきりどこぞへ消える。かまうことなく続けたなら、やがて戦闘は避ける面倒を省いた接近戦と、単なる殴り合いへ様子を変え、そうして相手の無様に腹をよじり、無様を笑われなお闘志に火を点けた。制限時間もないならエンドレスだ。繰り返すほどに息はあがり、大人だろうとスポーツさながら枕投げ万歳、わきにわく。
 と、前線も佳境とさし迫ったその時だった。不意に電話のベルは鳴る。待て、と制したのは息を切らして手を突き出したレフで、端末でないのだからフロントからに違いない、枕元の受話器を取りあげた。
「なに?」
 投げ損ねた枕を胸に百々も顔を寄せる。なら受話器を戻したレフは、つい先ほどまでのピローファイトが嘘のような真顔を百々へ向けて言った。
「隣の部屋から悲鳴が聞こえたと連絡があったが、おうかがいした方がいいかと聞かれた」
 なるほど、いい年をして枕投げで怒られてみる。貴重な体験に、冷めてゆくスピードもシベリア超特急クラスか。思い出したように飛び散った枕を、ふたりがかりで集めにかかった。
「お前の声が大きい」
「自分だって、なんかわめいてたじゃん」
「クソ。もう六時だ。寝る」
「あ、また無視っ!」
 ともかく、跳ねて暴れたほうがよほど長いベッドへ横たわる。とたん手のひらをかえしたような静けさが百々の耳を刺した。あまりの落差に眠るどころか目は冴えて、数分耐えたところで、本当にレフは寝たのかと、百々はそうっと隣をうかがい見る。
 そこでレフは微動だにせず、まるで棺桶ににでも入っているかのような直立不動で横たわっていた。これが目を凝らせば凝らすほど不気味に見えてくるのだから、尋常ではない。よもや死んでいるのでは。過ったとたん、ガバ、と上半身は起き上がった。
「なにっ!」
「興奮して眠れなくなった」
 死ぬほど驚かしておいてレフは言う。
「枕投げ、好きなんじゃんっ」
 もうつっこむしかない。
 聞かかずレフは再び浴室へ姿を消し、シャツを羽織って戻るなり前を合わせてホルスターを担ぎ上げる。続けさま袖を通したジャケットの内ポケットへ、端末もまた落とし込んだ。
「どこいくの?」
 靴を履くその背が、ベッドの縁で丸くなる。
「そのうち戻る」
 眺めたなら百々の口から言葉は、自然、こうもれ出していた。
「これが終わったらさ」
 いい提案だと思ったのだ。
「レフ、ウチへ映画、見においでよ。ブラック監督の新作も始まってるし、サイン、おいてるよ。小熊のチェブに詳しいスタッフもいるんだよね。絶対、話が合うよ」
 しかし忘れ物はないかと辺りを見回すレフの問いは、鋭い。
「どうしてチェブの事を知っている」
「がは」
 なんだかもう、知ったことではない。
「もういい。終わったあとで考える」
 打ち捨てレフも、言い放った。
 出てゆくドアの音が、離れた所でガチャリと鳴っている。相変わらず愛想のない返事だ、と聞いて百々は寝床から見送っていた。
 そうして安心したのではなく、安心させられたからこそだ。そこで意識は途切れると、急転直下で百々は眠りに落ちていた。