知識は強い。
ものかく時、ないよりあるに越したことはない。
けれど全てが理路整然としているよりも、そこにときおり雑味を混ぜ込む方が身近に感じることがあると感じている。
例えば理屈ではこうだ、と分かっていても、実感が伴わないアレ。
そんなとき、矛盾を放置できないからと理屈で通すよりもおいらは、自分の感覚を信じて時に不合理を突き通す。
そんな主観は他者の目から見れ珍妙に映れども、個の中では理屈が通っているわけで、書き切ればおそらく新たな道理になる。
そのねじれ具合こそが、表現の醍醐味なのではないかとも思うわけである。
外からの目は確かだが、内からの声もまた疑いようのない真実であるということ。
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