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巨船ベラスレトラス/筒井康隆


『断筆宣言』の詳細な経緯は知らない。
だが、表現についての筒井氏なりの譲れない主張があったように思い出す。

氏のそんな主張も、小説が実験的であることも、
『文学部唯野教授』そのものも、
いかに文章表現、小説に対して真摯あるか、その可能性を信じているか、
信じているからこそ聖域として本気で守ろうとしているか、が伝わってくる。
なら本書もまたそれゆえの思いがストレートに現れた作品ではないか、
と思わずにはおれないのである。

巨船、ベラスレトラスは、いわば文学界のメタファだ。
船の中で起こる様々なドラマは、
現在、筒井氏が身につまされている
文学界の危機そのものだと思われる。

果たして文学は成立し、前回、述べた科学に成り得ることで、
一部の人間のみがその本質を理解できるもの、
つまり本質が大衆から離れてしまっていたなら、
しかしながら読み手という大衆もまた必要不可欠であるところから、
ゆり戻されて、
積み重ねてきた手法を放棄、後退する事とならざるを得なくなっていたなら、
その中で、それでも本質を貫くことの意味はどこにあり、
どんな書き手と、どんな読み手が、それを担ってゆくのか。
商売として成り立たせるためと、(かなり語弊があるが)
プロとしての探究心と美意識と、
双方が引っ張り合って定まらぬ舵のまま進む巨船は、どこを目指しているのか。
はたまた向うべきなのか。

ブームとなった携帯小説。10代の文学賞受賞。
以外にも、もろもろが筒井氏を憤怒させ、不安に陥れているのでは、
と思えてならない。
(過去、述べた吉本隆明氏の『だいたいで、いいじゃない』の生産を消費する、を読んで、N.riverは憤怒と不安の一部に通じている、と確信している)

作中の作家らが書く小説の登場人物さえ同船してしまうこととなる巨船ベラスレトラスは、
まさに混沌としたまま不安だけを抱え、今だ霧の中を進む。
そうしてついに迎えるラストはN.riverにとって、
なぜかしら『タイタニック』よりも、フェディリコ・フェリーニの映画『そして船は行く』
を、思い出してならないのであった。


★連続して文学とは、
 などとN.riverが語るに陳腐な側面から
 書いてしまいましたが
 ここでも幻想と現実が織り交ざる
 ザッツ筒井マジックは秀逸です
 けれど冒険や恋愛などとエンタメ要素は
 薄かったかなぁと思い出します
 重めの問題作に挑んでやろう
 という方こそ、どうぞ!