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アンドロイドは電気ヒツジの夢をみるか/フィリップ・K・ディック


前回連続して取り挙げた筒井氏の『パプリカ』に同じく、
小説が映画化された例は実に多い。
本書もまた、SF映画の金字塔『ブレードランナー』として有名だ。
しかし知るのはなぜかしら映画を見てから、というのだから
N.riverは本当に本好きなのか。
いや本当は、映画好きなのだな。

聞き流していただいて、
『ブレードランナー』との出会いは、高校生の頃、入っていた映画研究部。
月一回、クラブ主催で行うビデオ上映会でだった。
その後もレンタルビデオで見、
テレビ放送で見、
録画して見、
ディレクターズカット版としての再上映を劇場で見、
廉価版のビデオを買って見、
見て見て、見まくった作品である。
だからして原作くらい読んでおかねば、と手を出すが、
今でもはもう映画と原作が混じって、なんだかはい?
の状態である。
そこをなんとか気を取りなおして、本題へ。

アンドロイドが重要な労働力と、活躍する未来、
彼らは就労場所から違法と逃げ出した。
主人公は、始末すべく追いかける人間の賞金稼ぎ、デッカードだ。
もちろん間違って、人間を始末してはいけない。
そのためにも街に紛れたアンドロイドを見分けるに、
心、恣意、感情が重視される。
だがアンドロイドたちは人間らを助けるべく、
よりよい労働力として人間に馴染まんがため、
すでに人間との区別がつきにくいほど、豊かな心を持ち始めていた。

そう、たとえ人間でも冷たいロボットのような感情の持ち主であれば、
人間を装うアンドロイドと疑われても仕方がないほどに、だ。

『アンドロイドは電気ヒツジの夢をみるか』
見なければつまり、それはもうアンドロイドではなく人間なのか。
境界はSFならでは、
不可能を可能にするテクノロジーの活躍により、極限まで突き詰められてゆく。
そしてアンドロイドを狩ることで否応なくデッカードは、
そのボーダーラインを行き来せざるを得ない立場に立たされるのだ。
(映画と混じっているやも)

緊迫の展開をみせた物語で最後、デッカードは、
映画の場合、そのボーダーに答えを出すと、
自分を人間と信じていたアンドロイドと駆け落ちする。
いやー、それやっぱ、ロボットやで。マニアやな。
高校生ながら、衝撃のラストであった。
一方、小説の最後は真逆と、デッカードが救われた気配はない。
彼はものも言わぬカエルを、電気仕掛けと知らず本物として溺愛するのである。

そうしてそこに残るものが何かといえば、
感情の質や、ある、なし、よりも、
「ある」と思った時なされる「感情移入」で、
それこそが人間を人間足らしめているもではないのか、
と囁くディックの声を聞いたような気がしたのだった。

だからしてN.riverは怯まない。
我が愛車にグラスホッパーと名をつけても、
そんじゃ、今日もこれから、たのんまっせ旦那。
と意気揚々、話しかけたとしても、
それはN.riverが人間である証しなのである!

……え? 落ち着け、
相手はぬいぐるみの方が、よかないか?
……いや、つっこむのはそっちか! 
何が見えている、しっかりしろN.river。

おあとがよろしいようで。

★著者フィリップ・K・ディックはビッグネームで
 他にも映画になった作品として有名なのが
 『トータル・リコール』『マイノリティー・リポート』です
 小説はやはりマニアックなので
 映画から入るのがおすすめです
 しかし1968年の作品とは思えぬ飛びっぷりに
 ほんと拍手だ