砂の女/安部公房
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さて最後、安部公房といえばこれ『砂の女』である。 だからして本書がはずせないことは理解している。 しかし理性より情動の足がウサギなみに速いN.riverは、あえてはずして、抜けているよと指摘を受けたのだった。 ということで、ついでに信念などと、とうに枯れ果ててもうないN.riverは返す。 すんません、書かせていただきます、と。 冗談はさておき。 ……あ、おいたら書くことがなくなっているじゃないか。 もとい。 本書『砂の女』は先だって記述した『燃え尽きた地図』と真逆に位置する内容だ、とN.riverは考える。つまり「街」から「村」への逃亡である。 (以下詳細は『燃え尽きた地図』を参考されたし) 男は昆虫採集に熱心で、いつか新種を発見し、功績を残したいと夢見ている。 つまり、役割を与えられぬ「街」において、己の存在理由を示そうと、残したいと願って、 昆虫探しに放浪を始めた人物であるわけだ。 だが新種は見つからず7年が経ち、男は「街」で男は死んだものと扱われてしまう。 男の「街」からの失踪はここで成立し、そんな男の辿り着いた先、 砂に埋もれようとしている小さな共同体(村)での生活が描写されてゆくのである。 そこで出会った女は、砂を掻き出すことに毎日を費やしている。 この何とも宿命的な、成さねばならなぬ仕事、つまり女に課された役割が、いかに「村」の象徴であることか。 「街」で存在理由に、その役割に飢えていた男はだからして、手伝い始めて逃れられず、なんだかんだと脱出を試みようとするものの、ついにその仕事へはまり込んでしまう。 最後、四方をうず高く砂で囲われたそこから女はいなくなり、 女が出て行った名残りとして、脱出用のロープは一本、男の前に垂らされたままとなる。 だが居場所を得た男はもう、生き急いで飛び付いたりしない。 むしろ後回しにすると、与えられた役割を無心にこなし続けることとなるのである。 「砂」「砂漠」と言うモチーフは、一粒一粒が山と積み上がって形成された、 特に何ら固定された居場所を持たず、さらさら流れて移動を続ける流動的なもの、 それらイメージから一粒一粒を人と捉えた「街」のメタファである、とN.riverは考える。 その砂に埋もれようとしている「村」という構図は、『燃え尽きた地図』の都市化の魔の? 手と感じさせてならない。 本書は、『燃え尽きた地図』の5年前、1962年に発表されてたものである。 都市化という環境の激変に追われ、存在理由を見失った人が「村」へ回帰し、 砂を掻き出すことで「村」を守ろうとしているこの物語から、 後の『燃え尽きた地図』での、 「村」の『地図(概念)』を捨て、「街」へ繰り出すしかない、との結論(N.river論)の推移を見れば、 安部氏の思考の流れが汲み取れはしないだろうか。 たとえば、否応なく課せられる宿命的生活(因習)は自由からほど遠いかもしれないが、 無条件にあたえられる役割によって、自分が何者であるかを考えなくてよい 一種、思考停止されられた楽な状態であり、 一方、因習から解放された「都市」という共同体は自由である反面、 何者でもない自分ゆえの孤独、不安に耐えなければならないのだ、と N.riverが生まれるその前から、安部は唱えていたように感じられてならないのである。 人というモノは因果なもので、果たしてこれからどこへ向かうのか。 時代はまさに安部氏の読み通り動いていて、先は時代だけが知っている。 まったくもって安部氏は、そんな時代に寄り添う一番のスクープ記者だったと思えてならない。 だからN.riverは今でも霊界から、最新のリポートが送られてこないか待っていたりするのである。 いたこ~。 いたこ~。 ★これさえ読めば安部公房なら知っている と胸を張れる一冊です 映画化もされています ゆえに見ようによっては 異世界物であり 謎とサスペンスに満ちたエンタメです まだの方は、秋の夜長にどうぞお試しください |