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共同幻想論/吉本隆明


さあ、どうしよう。
書くことがないぞ。
うろたえるが、読んだことに嘘はない。
N.riverはパソコンと対峙する。
ノミの脳みそへ空気を送り込み、膨らむだけ膨らませてキーボードを弾き始めるのであった。

と、言い訳したくなるほど本書は一章、一章が、ヘビーである。
イッキに詰め込めたものではない。
そうして理解できたかと問えば、内容は一割にも満たない惨敗。
再読する。
今年中にかどうか、なんて考え出すと尻の穴が縮みあがるので、あえて顔を背けるが、
背けつつも、所見の記憶だけはまとめておかねば、と腹を据えるのである。


吉本氏いわく
「国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけ様もない形で、習慣や民族や、土俗的信仰が絡んで長い年月に作り上げた精神の慣性も、共同の幻想である」らしい。
そう、「幻想」なのだ。
常々ファンタジーとは剣と魔法ではなく、共通認識された幻想だよ、と思ってならないN.riverにとっては、改めてはっとさせられる視点でありながら、分かる感覚でもあった。

だからして、
人のものを盗んではダメ、なんて法や国家に置き換えられるものは『共同幻想』に属し、
近親相姦はダメ、なんて家族や男女(夫婦)の概念に対しては、『対幻想』があてはめられ、
文学や芸術に関する概念についてを『自己幻想』と呼び、
吉本氏は社会そのものを、社会と我々の関係性を、
タブーや司祭、規範、罪、などの項目に分け、
他者の論の中で自身が不足だと考えた部分を補いつつ、 独自に論じている。

N.riverにはまだ、伝わっていないけれど。
 
くらいに、ちんぷんかんぷんである。
いきなり本書を読む前に、読んでおくべきものがあるようにさえ思われた。
きっと『言語にとって美とは何か』だ。
だがもう手遅れである。
毒を食らわば皿まで、だった。

哭くな、おとこだろう?
それ、『対幻想』。
か?
『自己幻想』
か?

気を取り直して、
「タブー」とは何か(どういうことが起きているのか、と言った方がいいかも)
「あの世」とは何か(生者しかいないこの世には必要ないのに、なぜ出来上がったか)
等々、比較的わかりやすい論もある。
(だからって、N.riverにきいちゃぁだめだよ。最後、頼りになるのは自分よ)
そしてこれはのちに『ハイ・イメージ論』として大成してゆくらしい。
こちらの方が現代を取り扱っているようで身近に感じたが、
さらに難易度がアップした、
量ともにカロリーマックスの
デカ盛り、ミックスカツカレー
のような仕上がりになっていたので、不肖N.river、ちびってしまった。

ただただ個性的で、それを支える吉本氏の膨大な知識量と、巧みに操ることのできる思考力に唖然とするばかりである。

個人的なことを言えば、
「国は倒産しないから、年金は払っておいても損はないって」
と、払い始めの頃、言われてN.riverは、
どうして誰かと指し示せないものへそれだけの信用が生まれるのか分からず 疑問を抱き、
どうしてもアテになるとは思えなかった見解の違いと、抱いた違和感への回答がここに隠されているのではないか、と思っている。

またそんなN.river自身の、愛国心とは何ぞや、を考えればこそ、
現在の日本のぱっとしない状況についても、
これまで続いてきた共同の概念に関する異変? が関係しているのかなぁ、と興味がわくのであった。
それがどれほど困難だろうとも、いつかどうにか、自分のものにしたいと思わせる動機である。

永遠に無理だとしても、ね。

さて、撤収。
次回は同じファンタジー系列でも脳科学方面、茂木健一郎氏の『脳と仮想』があったなぁと、
無理した疲労感に包まれつつ、N.riverは遠くへ視線を投げるのであった。


★マルクス、ヘーゲル、思想家のおおむねの知識と
 古事記の前半が、下地として必要そうです
 思考は数式を解くに等しく、いわゆる理数慣れした方なら
 論についてゆけるのかもしれません
 でなければ、入眠導入剤であることは保証いたします