ニッポンの小説/高橋源一郎
|
そもそも言文一致、という文体が確立したのは現代である。 それ以前は学校で習う古文、古典、が日本の「カキモノ」となる。 つまり今、我々が「小説」と呼んでいる散文の歴史は、言文一致以降、 漱石らが海外から輸入してから始まったもので、 せいぜい100年そこいらしかない。 しかも現在の形式に落ち着いてからを問えば、もっと短いものになるだろう。 だがいつからか我々は、「小説」とはこうしたものである、と信じ込んでいる。 本当にそうなのか? だとすれば輸入した「文学」における、日本らしさはどこにあるのか。 「日本文学」の今後の可能性は? 或るナニカ。 その「存在」を届けたくとも言語、文体、て文法、カテゴライズ、 既存の枠に絡め取られて分解、思考停止状態してゆく虚しさ、歯がゆさ。 その中で、現小説の限界突破はあり得るのか。 そもそも今在る小説は小説足りうるのか。 当たり前のように消費されている「小説」をあますところなく追及した一冊は、 その態度が真摯であればこそ、しめくくりにそこはかとない感動を覚えるのである。 そしてここで衝撃作「うわさのベーコン」を知ることにもなるのであった。 |