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ACTion 27 『Pick Up The Pieces!』



 何もかもが、止まってしまったかのようだった。
 痛みも、動悸も、そしてあれほど騒々しかった幻覚さえも、時がちぎれた今となっては欠片すら残っていない。
 ただ吸い付くような闇だけが感覚の全てを塞ぐと、延々静寂の中をぼんやり漂うがごとく、心もとなくも穏やかなひと時をアルトへ与えていた。
 それは泳ぎ疲れた午後に覚えるような、まどろみによく似ている。
 根拠のない幸福感が満たす、惜しみなき敗北感とも言えた。
 身を任せるほどにやがてそれは至極単純な眠気へとすりかわってゆく。外界と分け隔てていた輪郭を、身体というアルトの境界線を、曖昧とさせていった。
 果てにふつり、切れたその時、内より闇へ、世界へと、身体感覚は溶け出してゆく。
 その流れを止める術などありはしない。
 だからして果てまでを覆いつくさんばかり感覚は、肥大していった。
 果たしてナニが己で、ドレが世界だったのか。
 追いきれなくなるに時間はかからず、暗がりの彼方でひとつ、またひとつ、己が手足は消え失せてゆく。もちろん痛みひとつなくもがれてゆく体に、危機感がなかったといえばウソになるだろう。だがもはや取り返すなどできそうもない。形式程度に訪れた危機感も、通りすがりの他人よろしく手遅れと見極め、アルトの前を通り過ぎて行くあっけなさだ。
 ここにあるのかないのか、やがてアルトにとって自らの体は判然としなくなっていた。確かめるべく動かそうとしたところで、どこに力を入れるべきだったのかすら思い出せず途方に暮れる。やがてそう考える意識だけが、それを構成する言語だけが、闇の中でアルトという領土を主張し続ける浮島と、ポツリ取り残され漂った。その霞のような現象が唯一の証だなどと、まどろみに襲われつつある今、危うさは不安を越えて恐怖をアルトへ抱かせる。
 眠るな。
 黙することこそ死だと、アルトは己へ訴えた。
 言葉を、思考を、手放すまいと手繰り寄せにかかる。
 しかしながら眠気に押された思考の実力など、しれていた。言葉はただ支離滅裂に連なるばかりと、やがて体を成さなくなってゆく。
 
 食べたシシカバブが、汚れつつシミに。
 あの形の靴底に、減り方だったのだろう?
 クセが直す、ことへ。
 ハルスローがドック、はアイツが『九〇〇〇』だ。
 軽すぎてピンクの。
 今はまだ、ない。

 ただ自らの解体へ拍車をかけていった。

 夜だ。
 設定と変更?
 抜け出すさ。
 いつか。
 必ず。
 聞きつ。
 その。
 ひだりに。
 りにさ。
 何……。
 を……。
 …………。
 …………。
 …………。

 そうして途切れる思考と呼ばれた連続。
 だがそれは入れ替わりと起きていた。
 指先の感覚だけが、点と舞い戻る。
 何かが触れている。
 きっかけに、途切れたはずの思考は再び連続性を取り戻していた。
 瞬間アルトの身体は、その指先を起点にして取り戻されてゆく。
 闇の中、編み直されてゆく身体という境界線。
 切り取られて目覚めていた。
 いや、目覚めたと感じ取っていた。
 真っ先に確かめる、そのきっかけとなった指先。
 そこにぬるり、とした感触はある。
 こすり合わせてアルトはその感触を確かめなおした。
 覚えがある。
 過ったとたん、興奮剤を投与されたかのように血圧は上がっていた。
 血だ。
 言葉が脳裏で明滅する。
 と、それは指先で固く引き締まっていた。あっという間に手のひらへ張り付く一枚の面へ、姿を変える。面は曲面へとしなり、手のひらに程よく馴染んで冷ややかと貼りついていた。
 何がどうしたのか。視線を向けずにはおれない。
 周りは変わらず闇だ。だがそうしてうつむいた手元だけが、ほんのり明るいことに気づいていた。いつしかそこだけがシミ抜かれたように闇は切り取られると、先ほどから触れているものをのぞかせている。
 ケースだ。
 筒状にしつらえられた、それはアクリルで出来た筒状のケースだった。透明のその中には、布をかけられ横たわる何者かが見て取れる。覆い切れなかった布の端からは、尖った靴先もまた覗いていた。
 確かめアルトは、ケースへ視線を這わせる。
 と耳へ罵声は唐突なまでに投げ込まれていた。
『あいつが裏切ったんだ!』
 他に誰かいたなどと思いにもよらず、アルトは度肝を抜かれて顔を跳ね上げる。瞬間、手元の光が魚眼レンズを覗いたがごとく周囲へ広がっていった。一気にアルトを包み込むと、放り込んで世界を反転させる。それまであった静けさは遠く果てへ吹き飛び、刺激の洪水がアルトの目の前をチカチカさせた。
 鳴り響く警報音。
 重なって繰り返される機械的なアナウンスの声。
 船内なのか、極端に狭い通路は点滅を繰り返す警告灯にコマ落とされ、実際の距離をひどくつかみにくいものに変えている。そして何よりけたたましいのは、ケースを乗せて潰れそうに軋むストレッチャーの音だ。息せき切って床を打ち鳴らす自らの靴音も、カンに障って仕方がない。アルトはいつしか触れていただけのケースを力いっぱいに押すと、その光景の中を懸命に走り抜けていた。
『こうなれば残りの合流は無理だ!』
 あの声は言う。放つ人物は真正面にいた。進行方向に半ば背を向ける格好で、アルト同様ケースへ手をかけ、こちらを向いて引っぱっている。
『筒抜けなら、艇には乗れない!』
 言われてアルトは、そう怒鳴り返していた。
『二人なら……』
 彼が言いかける。瞬間、その顔が殴りつけられたかのごとく、あらぬ方向へ振れた。
 着弾だ。
『トパル!』
 叫ぶ。
 食い込んだ炸裂弾が、次の瞬間にもトパルの脳髄を木っ端微塵と吹き飛ばしていた。避けてアルトは反射的に手をかざす。音を立て、あのぬるりとした感触は指へはりつき、トパルの体が丸太のように倒れて転がった。勢い余ったストレッチャーはそこへ乗り上べると、それきりバランスを崩してよれるように倒れる。押さえ込み切れずねじ伏せられて、アルトも床へ身を投げ出していた。
『統制の本格的な足がかりとします』
 床の向こうから、声。
 いや、もうそれは床ではない。三重にも引かれた厳重なウィルスカーテンだ。声はその向こうから聞こえていた。
『非言語支配の幕開けですか』
『あの影響力で、極Yの動話がそのヒントを与えてくれました』
『皮肉なものですな。彼らが主要二十三種に名を連ねていれば、これほど大事にはならなかったものを』
『冗談を。強すぎる影響力など劇薬そのものです。扱うに神経を使うだけの厄介ものに過ぎません。我々にはコントロールできる程度の毒があれば十分なのです。それ以外は排除します。トニックのような騒ぎは、もう結構ですから』
『確かに。しかしF7の者は、イルサリ症候群の治療に関する研究だと信じ込んでいる様子ですが、彼らへの隠ぺいもそろそろ限界では? 今後、彼らには何と?』
『しょせん短命なヒトには、わかり得ない論理です。説明する必要も、説得する必要もありません。彼らにはせいぜい個を救ってもらえば、それでいいではありませんか。我々主要二十三種は定義できないそれら生命よりも、その現象として確実に存在するこの世界の存続につとめるだけです。この世界がなくてはまた、不確実な個でさえも、その存在が危ぶまれるのですからね』
『了解しました。ところで、近く行われる臨床実験には同席されるご予定で?』
『完成したのなら、息抜きにはちょうどいい演奏会となることでしょう』
 と、聞き入っていたアルトの肩を何者かが叩く。
『おい、気をつけろ。そのカーテンはきつすぎるぞ。面の皮が剥がれるぜ』
 まるで盗人のように驚いて、アルトは振り返っていた。
『いや、パスの再発行を……』
 が、そこには先ほどまで懸命に押していた、あのアクリルケースが横たわっている。
 声の主は見当たらない。
 いつしかアルトは、立ち並ぶ端末に埋め尽くされた部屋の中にいた。足元を大蛇のごとく這い回るケーブルが埋め尽くし、傍らに極Yの通信機、プラットボードも開き置かれている。散らかった仮想デスクは取り止めのないメモを記したホログラムを雑然と周囲に立ち上げ、主の活動を知らしめていた。
 そして静寂。
 あの話し声も何も、何も聞こえてはこない。時折、端末が、この部屋の鼓動のように低く機械音を響かせ、それにあわせてプラットボード上の極Y映像が、しなやかと動話を綴り続けるのみだ。
 見回しアルトは、恐る恐る足を進めた。
 真っ先に、倒れ掛かってきたあのアクリルケースの中を覗き込む。
 カラだ。
 開かれたケースは、そこに横たわっていただろうモノの窪みを残して、あざわらうかのようにアルトを見上げていた。意味もわからぬまま、分からぬものにほっとしてアルトは胸をなでおろす。そしてまるでずっとそこにいたかのように、背後の椅子を引き寄せ、どっかと腰を落とした。瞬間、言葉は口から飛び出す。
『イルサリ。ここでは禁止したハズだ』
 その突飛とも思えた言葉に間髪入れず答えを返してきたのは、合成音声だった。

  申し訳ありません。定刻の覚醒問診を行った際、出て行かれてしまったようで

 聞いてアルトは立ち上がる。
 端末の一角へ歩み寄った。
 その電圧を切る。
 スモークのかけられていた一角に、覗き窓のついたドアは浮かび上がった。と同時に、かすかに漏れ聞こえる柔らかな音階が、遠くくぐもった音でアルトの鼓膜をくすぐり始める。歩み寄り、寄りかかるようにしてアルトは窓へとその顔を近づけた。
 向こうに開けた部屋は四メートル四方ほど。中央には、アンプのような機材が数個、置かれている。華奢な背中は、そこに腰かけていた。見つめるアルトの視線に気づいたか、すぐにもねじれて振り返る。
 みつかっちゃった。
 ドアのせいで声は聞こえはしなかったが、はっきりそう口が動いていた。首から楽器をさげたネオンはそこで、悪戯げな笑みを浮かべてみせる。


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