声を上げ、跳ね起きていた。
闇雲に振り回した腕が何かを倒す。
神経質な音が床で弾けていた。
かまうことなくアルトは両目を見開く。
そこに掃きためられたような生活備品は、山と積み上げられていた。囲って、使い込んだ分、黄ばんだように見えるベージュ色の壁が立ち塞がっている。作り付けのロッカーとほぼ同じ外見のバスブースが並び、離れてポツンと貧相な丸テーブルが平衡感覚も危げに固定されていた。そんなテーブルと向かい合うように据えられた調理台には、日々の酷使を訴えて焦げがこびりついている。
それ以外、誰の姿もなかった。
ただ寝息がごとく空調は穏やかに作動し、そのかすかな音でもってして周囲の静けさを強調する。間違いなく停泊中の船の中、アルトは後付された居住モジュールにいた。当然といえば当然だ。そのハッチに腰掛け、ライオンの放つメッセージを聞いていたのである。よもや地面へ吸い込まれるなど、体が闇に溶け入るなど、現実に起きるハズなどなかった。
幻だ。
永らく忘れ去っていた、興奮剤の幻覚。
だが幻を見た、ということだけは事実だった。その証拠に葬り去ったはずの記憶は、思い出すなどという言葉ではあまりにも生ぬるい勢いで、アルトの中へ怒涛のごとくまき散らされている。
確かに記憶を管理しているのは脳そのものだろう。だが管理されている記憶とは、そこに隷属する肉体の受けた刺激によって構成された概念の総体である。ライオンの運んだ声をきっかけに、それら肉体に書き込まれた感覚の記憶を、どうやら一息に体験しなおした様子だった。言い換えるなら感覚記録のローディングか。しかも耐えうる限り最大、かつ最速のローディングだ。おかげで伴う感情のアップダウンは激しかった。そしてそれらは、以降、積み上げてきた記憶ともまた、噛み合わずにせめぎ合う。
怒り。
希望。
憎しみ。
疑念。
決意。
自信。
恐れ。
不安に満ちた迷いと、ささやかな愛情。
そして芽生えたばかりの我。
詰め込み膨張した頭をアルトは、両手で抱えた。
苦虫を噛み潰すかのように、ギリリ、こめかみを窪ませる。
刹那、ありったけの声を吐き出した。いや、それは叫び声に近かったやもしれない。自分でも驚くほどの大声だった。忘れ去っていたアルトでありアルトでない世界の記憶と感覚、感情の全てを切り離す。
叫び終えた喉がひりひり、痛んでいた。
痛みが今、ここに在る己が誰かをより確かなものへ、変えてゆく。
途方もなく疲れたときのように脳の芯が痺れていた。紛らせ、抱えていた両手でアルトは何度も乱暴に頬を拭う。強張ったままの肩を掴み、揉みほぐして大きく一息、吸い込んだ。
ようやく顔を持ち上げる。
慣れ親しんだ部屋は、それこそが心遣いだといわんばかりだ。何変わることなく涼しげにアルトを包み込むと、すまし顔でたたずんでいた。あまりの肩透かしに呆けて見回せば、寝かされていたマットレスへ投げ出していた足が、他人のもののように視界に映りこんでくる。
おそらく、ここへ担ぎ込んだのはライオンだろう。
靴すら履いたきりの足を自分のものにすべく、アルトは重い体を捻り床へ足を下ろしてみる。違和感は、そのとき靴底から伝わっていた。
何か踏みつけたようだ。
自然、視線は落ちていた。確かめゆっくり、靴先をねじる。床の上を滑らせたなら靴底から流れ星のごとく尾を引いて、『アーツェ』独特の細かい砂塵は現れた。どうやら跳ね起きた拍子に倒したのはコレだったらしい。傍らにはまだ半分ほど中に砂塵を残したガラス瓶もまた、転がっている。砂塵は踏みつけた場所以外にも点々と散らばり、またひとつ後片付けが増えたと、アルトは瓶へ手を伸ばした。拾い上げようとして、動きを止める。
瓶の中、砂塵に何かは埋もれていた。それは雑然としたこの部屋に似つかわしくないほど、艶やかな色味のものだった。瓶を拾い上げるより先、興味津々、アルトはそれをつまみ出す。目の高さへ持ち上げていった。覚めてすぐ目にするにはあまりにビビッドな赤とオレンジは、そんなアルトの眼を刺す。人工的なまでに発色鮮やかだ。拾い上げていたのは、『アーツェ』の花だった。
よもやこんな所にあるハズもない花に不意をつかれて、至極単純に美しいと心の中で呟いてみる。そして誰が一体こんなところへと自らに疑問を投げかけ、よもやあのライオンがと想像して、今度はまさかと削げた頬で一人、笑った。そんな少女趣味なら、そうなる予定に胸躍らせているデミの方が至極妥当だ、とさえ思い直す。
とたん存在は、脳裏へ浮かび上がっていた。
弾かれたかのごとくマットレスから立ち上がる。
浮かんだままに追いかけ、居住モジュールの薄いドアを体当たりでスライドさせた。
通路を船首へ向かう。
さなか、聞こえてきたのは柔らかなあの音階だ。
これもまた、記憶の続きなのか。
手繰り寄せ、簡素なスチール階段へ通路を折れた。
踏み外しそうになりつつ駆け降りる。
正面突き当たり、狭い踊り場を挟んだハッチは開け放たれたままだった。うっすら積もった砂塵越し、ドックの天窓から降り注ぐアメ色の光が、連なる世界を赤く塞いでいる。柔らかい音色は、そんな光の向こうから聞こえていた。
それは自らが蒔いた種だ。
辿りつき、目を細め、アルトはハッチの縁へ手を掛ける。
膨張する光を突き破り、一思いに船から身を踊らせた。
停められた三輪ジープの位置は、最後に見た時と変わらない。
しかしながらその荷台に何者かの影は揺れている。
同じ背中だ。
背中はすぐさま視線を、いや、船から飛び降りたアルトに驚き、振り返っていた。
ネオンの目がアルトをとらえる。
ただそれだけだ。
ただそれだけのために、全ては目に見えぬほど鈍磨なスピードで回転を続けていた。
「な、なに? そんなに勢いよく飛び出してきて。顔、怖い」
荷台から立ち上がったネオンは言い、すぐさまこうもつけ加える。
「でもその様子じゃもう、大丈夫みたい」
肩をすくめてまた笑った。
「って、わたしの話、聞いてる?」
アルトの焦点を探ると手を振る。
言われてようやく、アルトは目をしばたたかせていた。
反応が返ってきたことに、ネオンはひとまず安心した様子だ。
「デミと町から帰ったら、ライオンがメッセージの再生を始めたとたんにあなたがひっくり返ったって大騒ぎしてたのよ。で、ビオモービルでデミにサスを呼びに戻ってもらったのに、サスは今、あなたを病院に運ぶのはマズいって言い出して、それからまる一日かしら。あなた、眠り続けてた。って、ちょっと、聞いてる?」
眉をひそめ、今度は渋い顔を突き出す。
「あ、ああ……。さっきの音は、お前なのか?」
あやふやに答えてアルトは、確かめた。
「そうよ。別にタダ聞きだ、なんていいませんから」
素直に頷き返したネオンは、すぐさま憎たらしげな表情を反転させる。
「それよりも安心して! 靴代を返せるメドは立ったわ。デミが案内してくれたレストランで明日の夜、演奏させてもらえることになったの。さっきのはその準備。ラッキーよねあたし。ケースはフェイオンにおいてきちゃったし、楽器につけてたリードは振り回し過ぎてもう使い物にならにくらいボロボロだったけど、一枚だけ予備のリード、ポケットに入れてたのよね。船賃も合わせて利子つけて返してあげるわ」
反らす胸の上で、青い瞳がきらきら輝く。
「他はどうしている?」
目もくれず、アルトはたたみかけていた。
ならすかされたことが不満らしい。答える前に、ネオンは唇を尖らせる。
「ライオンは予定していたドックじゃ船が納まりきらないらしくって、新しいドックを探しに出てる。デミは明日の打ち合わせとPR活動中。サスは仕事が忙しいみたい、あれから連絡もないわ。だからわたしがお留守番ってワケ」
言って視線をアルトの手元へ向けた。
「あー、ちょっと、花、もいできちゃってるじゃないっ。記念にもらってきたところなのに」
言われて初めてアルトは握ったままのソレに気づく。
「起きた時に倒した」
どうにも弁解の余地はない。ならばむげに責められないと諦めたか、ネオンは首をかしげていた。
「何か、食べられそう?」
脈絡がつかめない。アルトはすぐさま答えかねて口をつぐむ。
「まだフラついてるようだから作ってあげる。っていっても、そっち持ちのミールパックを温めなおすだけだけれどね」
なら笑いはここでも悪戯げとアルトをとらえていた。
断る理由がまるで思いつかない。ゆえに連れ立ち居住モジュールへ戻る。最中、ネオンは丸一日、眠り込んだアルトの原因を探してあれやこれやと質問を投げかけていた。くどさにかまうなと言いかけアルトは大丈夫だ、と言葉を選びなおす。ただぶっきらぼうな響きだけは拭い去れず、むしろその響きに誰より自分が驚かされていた。
「あのさ、勘違いしないでよね」
浴びせられたネオンこそ、何も知らない。
「あなたを心配して言ってるんじゃないの。いい? また倒れられちゃったら、あたしはお手上げなの。あなたは時の運だと思ってるかもしれないけれど、あたしはこのチャンスを逃したくないの」
スチール階段の下で一人、憤慨している。そうか、と聞いていて、アルトは登り切ったそこで踵を返していた。
「ちょっとっ、モジュールはこっちでしょ」
呼び止められようとも理由はある。
「先にすませたい用がある」
通路の突き当たり、コクピットへ続く階段手すりを掴んで言い放った。
「ミールパック、何番がご希望っ?」
登り始めた体が見えなくなる前にと、ネオンの張り上げる声は大きい。だがアルトに今、吟味できるほどの興味は持てなかった。
「お前の食べたいヤツにすればいい」
「なによ、ソレ」
見送るネオンが、ぷうと頬を膨らませる。
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