つま先立ちで背伸びする。ミノムシドアの表面に行き先を記録させたメモを貼り付け、デミはエアソールシューズのかかとを地に着けた。荒いドットを瞬かせメモは、そんなデミの前でサスあての短いメッセージをスクロールさせている。
『仕方ないよね。間に合えばいいけど』
つまりサスはまだ店に戻っていない。そして何も聞かされていないデミは、取引のためサスは店を離れているのだと信じていた。
『大丈夫、間に合わないなら、また、ここへ来て演奏する。それより学校も、遅れた』
残念そうなその顔へ、首からストラップだけをかけたネオンは口を開く。
『学校なら大丈夫だよ。フェイオンでのデータは頭の中だし。戻ったらすぐ提出できるよう、ジャンク屋の船の中でまとめておいたから』
振り返って笑うデミの様子は、あながちウソとも取れない自信に満ちている。
『たまげた逸材だな』
ライオンがあきれたように言ってみせた。
『あんたが仮死ポッドに入っている間、おかげでこっちはどれだけ振り回されたか知れないぜ』
アルトもすかさず口を挟む。
暮れかけた『アーツェ』の空は、真っ赤だったその色を今、溶けるようなクリーム色へ変化しさせつつある。そんな夜空の片隅には、くぐり抜け、向こう側へ抜け出せそうな衛星の蒼い影が二つ、ぼんやり穴をあけていた。休むことなく循環して降り積もる砂塵のせいだ。けぶる大気のせいでそれ以外は判然とせず、まるで分厚い絵の具に塗り固められたような閉塞感が、砂漠の星の片隅のこの小さな町を覆い尽くそうとしている。
『しかしその店の予約、いつもの倍以上だと聞いたが』
苦笑いに黒光りする鼻先をひくつかせ、ライオンが確かめ問うた。
『だって伝説では聞いていても、誰もホンモノの音なんて聞いたことないんだよ。当然だね』
ネオンは肩をすくめ、デミが鼻溜を揺らして教える。さもありなんと、ライオンが深く腕を組むのは、メンテナンスをこなしながら練習するネオンの音を聞いたせいだ。
『確かに、あれは不思議な音だった。いや、聞いたと言うよりも触れたような体験だった。言葉がないので意味は分からないが、それでも確かに伝わるものはある。なるほど、言語と種族を超越して一世を風靡したのも頷けるというものだ』
『フェイオン』の下層で同じ事を感じたのだろう。満足げに鼻溜を膨らませて、デミもまたうなずきかえしている。勢いを借りて誰もの先頭を切り、そのきびすを返した。
『じゃ、そんなショーの待ってるお店までは、ぼくが案内するよ。ついて来て！』
路肩に止められていたビオモービルの後部座席へ、ネオンを乗せる。ビオモービルはデミの運転で、公道を耕すように砂塵を巻き上げ走り出した。その後を、アルトとライオンを乗せた三輪ジープが追いかける。
そうして連なり走る道すがらデミがネオンへ確認したのは、これからの段取りだ。今夜のステージが二部構成だということであり、前半はネオンのソロが、後半はデミのお膳立てした地元『リピトール楽団』とのセッションが用意されている、というくだりだった。
『楽団は、もうお店に入ってると思うよ。打ち合わせは、着いたらすぐ始めるね。もちろん通訳は、ぼくがするからおねえちゃんは安心して』
そもそも他者と演奏することもまた、ネオンにとってはこれが初めとなる。
『わかった』
『お金は、お店の営業が終わった後、売り上げの十三パーセントがもらえるってことになってるよ。物価の違いがあるから、すこし少なく感じるかもしれないけれど、お店はこれ以上はムリだって。ケチだよね。こんなすごいショーなのに』
不服そうにデミの鼻溜が膨らんだ。その目でちらり、サイドミラーをのぞきこむ。後方から追いかけてくるアルトの三輪ジープを確認した。
『だからってわけじゃないけど』
視線を戻し、そっとつけ加えたのは、こんな言葉だ。
『お店のひとは、よければ明日もって……』
肩越し、ネオンへと振り返った。
ネオンはそんなデミへ、かぶりを振って返す。
分かっていただけに、デミの鼻溜はきゅっと縮まっていた。
『そうだよね。だっておねえちゃん本当は、おいちゃんが来る前に、ここを離れたいんだよね』
まっすぐとはいえ時折、対向車も現れる目抜き通りだ。前へ向きなおった。落胆ぶりは手に取るようで、ネオンの心に刺さる。
『色々、アリガト。ごめんね』
せめてもの償いだと、言っていた。
『そんなの、いいよ。だっておねえちゃんに見つけてもらえなかったら、ぼくの方こそどうなっていたか分からないもん。ぼくこそありがとう。わがまま言ってゴメンね、だね。そうだ、さよならする前にジャンク屋にもちゃんとお礼を言っておかなきゃ。でもね、でもなんだよ。おいちゃんは悪いひとじゃないよ。だって、ぼくにとっても優しくしてくれるもん』
最後、付け加えて鼻溜を歪める。膨らませて一息ついたデミの問いかけは、だからして意を決したようにネオンの耳へ届いていた。
『おいちゃんのこと、キライ？』
気づけばクリーム色だった空は白く腫れ上がり、すっかり一面を覆う夜へ変えている。降り注ぐ砂塵はそんな空に反射して、夜道は粉雪が舞うがごとく白くけぶっていた。
『だから急いでここを出て行きたいの？』
などとストレートな質問は、包まれたビオモービルの中、ネオンからクスリ、笑いを引き出させる。
『好きか嫌い、か……』
考えたこともないようなそれは二者択一で、吟味すればネオンの目は、大げさなまでに周囲をぐるり見回していた。後部座席へ背を倒してゆく。深く埋もれてネオンは一息ついた。その目が、ルームミラーに映ったデミの心配げな目と合う。
『一緒に仕事をしていた。けどデミが女の子になる、決めたように、サスの店を継ぐ、決めたように、わたしにも考えがある。けれどトラはそれを認めてくれない。だからケンカするの』
造語に細心の注意を払い、言った。
『苦手だけど、好きや嫌いじゃない。これからどうするのか。わたしの考え、なの。だからトラがいいひとだとしても、思いなおせない』
ルームミラー越し、デミの目は絶えず話すネオンを見つめている。かと思えば静かにその鼻溜を揺らした。
『あのね、ぼくが、女の子になっていいのかどうか迷った時、おじいちゃんに相談したことがあったんだ』
話が突飛であったことはいうまでもないだろう。ネオンは数度、目を瞬かせる。その意味が掴みきれないからこそ、よく聞き取ろうと座席から背を浮かせていた。ならデミはこう続ける。
『だって、ぼくはおじいちゃんの店を継ぎたかったし、おじいちゃんは男の子を選んだんだもん。それでいいのかなって思ったんだ。そしたらね、おじいちゃんは、ぼくにこう言ってくれたんだ。それはぼくが決めることだって。だってそれは、ぼくの生き方だから。えっと、ヒトなら「人生」って言うんだっけ？ おじいちゃんは少し寂しそうだったけど、ぼくの決めた通りにやってみなさいって言ってくれたんだ。きっとおいちゃんとおねぇちゃんも、そういうことなんだよね。良いとか悪いとかじゃなくて、好きとか嫌いとかじゃなくて、そうありたい、ってことなんだよね』
生き方、という言葉は考えてもみず、突きつけられてネオンはしばし言葉を失う。いや、ただその言葉に妙な力強さを覚えて内に、たくわえた。確かめるようにそれを『ヒト』語で、なぞりなおす。
「……生き方、か」
思い起こせば仮死ポッドが見つけ出されたことも、蘇生されたことも、過去を覚えていないことも、負わされた借金も、何一つネオンが主導権を握ることなく押し付けられたものだった。そうして過ごした時間は長く、自らが選ぶなどとすっかり忘れたまま、毎日は積み上げられてきている。果てにこれが初めて自ら選んだ道だというのなら、その新鮮な感触をネオンはそっと手繰り寄せていった。
『生きてる』
つづる造語。
『なら、仕方ないよね』
あっけらかんと飲み込んで、デミも鼻溜を振る。
『今日は、そのための演奏』
おそらく生きるためではなく、今日、初めて、生きている今を奏でるのだ。感じてネオンもただ返した。
『楽しみだな』
知ってか知らずか、デミが短く答えている。
それきりふたりは押し黙った。ほどなくその視界へ『アズウェル』のホロ看板は、温かい色味で浮かび上がってくる。デミはビオモービルのキャタピラを減速させ、路肩へ寄せた車体のエンジンを切った。おさまった震動に、ネオンの頬へ忘れていた緊張感は張りついてゆく。
今日は特別だ。
強く意識していた。
店先に止まった駆動音を聞きつけ、ボーイが店内からあらわれる。その顔は、歓迎の笑みで満ちていた。向かってデミがビオモービルから飛び降り、意を決したようにネオンもまた抜け出してゆく。
白く遮のかかった『アズウェル』のホロ看板を見上げる両眼に込めた力は、並大抵のものではない。
『盛大に、始めるわよ』
声は不敵と、その唇からこぼれ落ちる。
そしてその頃、『貨物船 エイサー号』は町外れの砂漠港で、着陸態勢に入ろうとしていた。一方で町を挟んだ反対側、砂塵に埋もれた連邦軍跡地の滑走路では、停泊した巡航艇の尻から絶縁スーツに身を包んだ分隊たちの足跡は、砂漠の中へ伸びていた。トラの乗る『バンプ』は『アーツェ』を前に光速を抜け出し、まだその道中にあるスラーとモディーは、船内で相変わらずのどつき漫才を繰り返し続けていた。
只中で町は静まり返ると、聞いたことのない音色に胸、踊らせた影を数多、『アズウェル』へ向かわせている。
幕開けまであとわずか。
『アーツェ』の夜の白さは今まさに、その極みにまで達しようとしていた。
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