またひとり、『アズウェル』へと客が消えていた。
灯された赤いホロ看板へ吸い寄せられるように、白夜の彼方から現れ出でた客たちは出迎えるボーイへ上着と靴を預け、次から次にエアシャワーブースへと潜り込んでゆく。
詰まるところ、みな噂しか知らなかった。ゆえに抱えた期待の全ては、語り草となった極Yのトニック同様、映像と伝聞がくどいほどに刷り込んで植えつけた、記号のようなステレオタイプの感動だ。そこに実感がかけている限り知識は己がものにならず、補填されるものが極上の感動であるなら、誰もがこの機会に胸をときめかせ『アズウェル』へ足を運んでいる。
なじみの客は出迎えるボーイと親しげに挨拶を交わし、そうでない者たちは意気揚々とドアをくぐっていた。すでに個室はその半分が埋まり、演奏が始まるまでのひと時を、いつも以上、弾む会話と多彩な料理で過ごしている。それら個室の間を行き交うボーイは、普段ならクロークで預かる靴や上着類を個室にまで届けていた。収容客数から保管は不可能と判断されたせいで、そのひと手間はおそらくボーイたちを忙殺しているだろうが、彼らにそんな様子は微塵もうかがえない。かつては八つ星レストランに選ばれた、これも実力か。まるで水槽を泳ぐサカナのごとくしなやかな身のこなしで、フロアを行き交っていた。
やはりこの花はポップの店が卸したものらしい。デミのふれこみにより昼間と違いダークなドレスに身を包んだポップは、エアシャワーブースを出たところ、壁際の最も大きな飾り付けへ熱心な視線を向けている。そんな彼女へもボーイはウェルカムドリンクを差し出し、受け取ったポップの目に厨房より飛び出してきたデミの姿は映った。デミも目ざとくポップを見つけたなら、客とボーイの間をすり抜け駆け寄り、つま先立っていつも以上の熱弁をふるって今日を語る。
かたや離れた場所で立ち話に興じているのは、赤い『アーツェ』の民族衣装を着た民族楽団団長のエンシュアだ。袋を片手に、打ち合わせと称して行ったセッションの余韻もそのまま、オーバーゼスチャーで、個室に腰をおろした知り合いと鼻溜を揺らし合っていた。
振り上げたその手が、すれ違うボーイと思わずぶつかりそうになる。だが知っていたかのようにかわすボーイは、実に器用だ。そのさい、おどけたように首さえ傾げてみせたなら、オレンジ色の明かりを反射させた周囲から、笑みは引こぼれた。
老いも若きも『デフ6』も、偶然この惑星を訪れた『デフ6』以外の種族も、記号が実感に変わるその衝撃をまちかまえ、思うがままに期待を膨らませている。これでもかと胸を躍らせ、その瞬間を待っていた。
それぞれの思いはそうして『アズウェル』で渦を巻き、夢という名の、しかしながら揺るぎないひとつの像を作り上げてゆく。共有されたそれは、まさにかつて既知宇宙共通の話題であったとおり、国境なき別世界を体現しようとしていた。
だからしておそらく、この先、言語と理論は必要なくなるはずだった。ゆえにどこから誰が何を携え訪れようとも、この世界の住人にすっぽりおさまるはずでもあった。
そう、己がどこから来た誰であるかを、忘れ去ってしまったように。
どこから来た誰が、己であったのかを捨て去ってしまったかのように。
エンシュアとのニアミスをやり過ごして厨房へ向かうボーイは通りすがり、アルトとライオンの個室から飲み干されたグラスもまた回収している。だがふたりは、アルトの告白に黙り込んだままだった。ただライオンは周囲が騒ぎ立てれば騒ぎ立てるほど、まだ自分に運は残っているだろうかと考え続ける。動じずアルトは壁へ背をもたせかけると、組んだ両腕で目を閉じうつむいていた。それが何かを待っているように見えたなら、なおさら不穏な空気はライオンの中で拭えぬものと膨れ上がってゆく。だとしてどうしても追及する勇気だけは持てずにいた。
全てを知らず、ふたりの個室からグラスを引き上げたボーイの行く先、厨房の奥に設えられた従業員控え室にネオンはいた。残念ながらこうしたイベントが初めての『アズウェル』に、気の利いた楽屋はなく、あてがわれたのは左右に『デフ6』用の小さなロッカーが並ぶ更衣室、その中央に置かれた円形のベンチにいた。
そこには先ほどデミが残していった賄いの皿が、まだ湯気を上げたままで置かれている。加工惑星である『Op・1』の他種族料理がベースとなったそれは、『ヒト』も楽しめるクリームシチューによく似た一品だった。だがネオは手をつけていない。かつてない緊張が、そんな気分にさせてはくれなかった。
思えばこれまで盲目なまでに音色を溺愛するログジャンキーしか、相手にしてきたことがない。だからして受け入れられて当然と、楽器の上にあぐらをかいてきていた。だが今回は違う。
あおって隣接する厨房からはフル回転の悲鳴が聞こえていた。それはいまだ一度ものぞいていないフロアの大盛況ぶりを伝え、並ぶ好奇の目を予感させた。晒されて、その期待に応えることができるのか。また不安は吹き出す。それまであった自信など、あとかたもなくかき消してしまっていた。
根拠などなかったのだ。
取り戻せぬままネオンは、初めて己が自信の薄っぺらさに愕然とする。覚えた心細さに、首から下げた楽器ごとベンチに立てた両ひざを抱きしめ小さくなっていった。
ままに息を殺す。
続かず体を揺すってみた。
だがそれは最初の一音さえ選び出せそうにないほど、支離滅裂なリズムしか刻まない。
最悪だ。
こんな状態でいつもの演奏などできやしない、と思う。
あざ笑って時間は迫り、厨房のけたたましさだけがコト切れそうなほどまでにテンションを上げていた。
デミに相談しようか。いや、混乱させるに違いない。思考は低く鈍いところを何度もぐるぐる回り続ける。
果てにそれはふい、と浮かんでいた。
当然だ。
いつも期待に応えてなんていやしなかった、と。
何しろ繰り返してきた演奏の全ては、降り注ぐままにが常だった。閃いたそれを伝えたい心のままに、が全てだった。音はいつだって、ネオンが自由にしてきたものだった。
演奏を習得し記憶は、過去にしかないのだ。
だからして忘れてしまったはずなのに、それでも動く体はネオンの意思を越えていた。
それを今さら変えようなんて、出来るはずもない。
そして出来るはずのない事をしようなどとと、混乱して当然だと思えてくる。
瞬間、塞いでいた胸で何かは弾けた。
まるで視界が新しい色に塗り変えられたような錯覚さえ覚えてネオンは、詰めていた息を吐き出す。
曖昧ながら、明確とドコカに或る己の核は、またもやネオンを饒舌にしようとしていた。
湧き出す思いは音色と弾けて、ネオンの中を満たしてゆく。
それはやがて不安に焦げ付いていた心の底を押し広げると、そこに湖面をあらわとした。湖面は降らせる空を、その根源を映してネオンの中でしん、と冴えわたってゆく。
抱えていたヒザから腕をほどいていた。まるで空から舞い降りてきたかのような気分だ。ネオンはそうっと床へ足を下ろしてゆく。
厨房の怒号はまだ止んでいなかった。だが今となってはそれも上滑りするほど、部屋は静かだ。
確かめネオンは二度、瞬く。
ロッカーに後付された小さな鏡に、そんな自分の顔が妙に歪んで映っていた。意識してネオンは小さく笑いかけてやる。
呼び止めてドアがノックされていた。答える前に振り返れば、その時がやってきたことを告げてドアは押し開けられてる。
『おねぇちゃん。出番だよ』
現れたデミが、誘って鼻溜を振っていた。
顔へとネオンは、静かにうなずき返した。
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