そこで一人、振り返る。
気配などではない、それは確信だった。
靴音は聞こえている。
うるさすぎる部屋は苦手だと言ったはずなのに、いつまでたっても分かってはもらえない。だからここへ逃げ込んだのだ。
案の定、ドアのスモークは解かれていた。寄りかかりのぞき込む顔は、いつもにも増してしかめっ面だ。しかしながらどんな表情だろうと、その通りと大正解。とらえてネオンは口を開く。
「……みつかっちゃった」
諭されても、叱られた記憶はなかった。それは入れ替わり立ち代り、まるで日替わりメニューのように通り過ぎる様々な顔ぶれの中でも、目覚め、眠るときには必ず傍らにある顔だ。安堵すら覚えてネオンは、アンプの上でドアへと座りなおす。今回も、連れ出されるだけだと開き直っていた。ただ微笑んで、お馴染みの展開を待ちうける。
と、不意にその姿はドアの向こうから消えていた。
期待を削がれたようで、ぶらぶら遊ばせていた両足の動きさえ止まる。
なら気付いたように影は舞い戻り、ドアは押し開けられていた。
なんだ、と思えば、背筋も得意げと伸びてゆく。
ままに立ち上がりかけて、足元へ屈み込まれていた。
その手には見慣れないモノがある。
そろえて床へ置くなり、ネオンのエアソールシューズを脱がせにかかった。
「たとえベッドルームでも、自由行動の度が過ぎる」
もがれたエアソールシューズが、追いやられてゆく。
「あたしのクツ」
酷い仕打ちだと口をすぼめていた。代わりにネオンの足へ、見慣れないそれはあてがわれる。
「今日からはコイツでも履いてろ。これでちょうどいい」
それはエアソールシューズとまるで正反対と、ひどく窮屈な履き心地だった。履いてまもなくつま先が痛み始め、立ち上がるなどともってのほかとなる。試してよろけ、ネオンは再びアンプへ尻もちをついていた。
「いやだよ」
早々に渋って返す。なにしろやたらかかとが高いのだ。しかも不条理なまでに細く、それは爪先立ちよりたちが悪かった。しかし奪われたエアソールシューズは、自由もろともすでにその手に匿われている。もう返してもらえそうにない。睨みつけ、ネオンは先ほどドア越し見た渋面以上のしかめっ面を作って返した。
「元に戻してよ、セフ」
「おとなしくてしたらそのうち返してやるよ。アルト」
醒めるほどに白い上着からは、鼻について止まない薬品の匂いがしていた。嫌なことはそれだけだ。それ以外、セフは嘘さえついたことがない。だからネオンは飲み込むことにする。けれど一人では動けそうになかった。無言のまま、甘えるように両手を伸ばした。応じてセフはその手を取る。立ち上がろうとするネオンを引き寄せ、その両足をすくい上げた。抱え上げられたネオンの胸から楽器が滑り、落ちそうになる。押さえてネオンは白い上着の襟へ、しがみついた。
薬品の匂いに混じってほんの少し、違う匂いが鼻をかすめる。
温かな匂いだ。
吸い込んで、そう思っていた。
ポッドは窮屈でたまらない。そして時にネオンを不快な迷路へ陥れる檻でしかなかった。冷たく固いその中で、いつからかネオンは疲れ果ててうんざりしている。
早く帰りたい。
願いは確かなものとなっていた。
けれどそれがどこなのかが、分からない。
ただこの匂いに、その手がかりを感じ取る。
格別に温かいそこなら帰りたいと、くるまるままに身を沈めていった。
前に、泉は今日も広がる。
深く澄み切った泉の水面には波ひとつ立っておらず、眺めて吸い寄せられるように、ネオンは縁へ腰を下ろした。鏡のような湖面を覗き込めば、漂う静けさが疲れも恐れも、後に訪れるだろう不快さえ消し去ってゆく。その心地よさに、記憶に残る眠りの気配は過っていた。拒む理由などどこにもない。応じてネオンは柔らかく自らをほどいてゆく。ほどきながら静けさの底へ、深く深く潜っていった。
瞳を閉じる。
ただそれだけで。
経てゆっくりと、まぶたを開いてゆく。
あの浮遊感と匂いはまだ胸に指先に新しかった。
それどころかまるで地続きかと疑うほど、目覚めは穏やかだ。
「セフ……」
ここではそう呼び合っていた、ひどく曖昧で断片的な記憶。
思えば、押しのけ逃げなかった不思議な信頼感の正体を、今さらのように知らされる。
そんな視界の端に、あの冴え渡る白はあった。思わず白衣かと目を凝らし、自分にかけられたシーツだと気づいてネオンは息を吐く。
いつしか体は滅菌ゲルからベッドの上へ移されていた。
とたん蘇るつい先ほどの光景に、数え切れないほどと並べられた己の姿は舞い戻る。あった浮遊感は粉々に吹き飛び、貴様の量産体制に入る、二度と目覚めることはない、言い放ったバナールの言葉が頭を駆け巡った。共に撃ち込まれたものが恐怖以外の何物でもなかったなら、たちまちネオンはセフなら何とかしてくれるはずだ、と姿を探してその目を泳がせる。やがてその姿は夢でなく、現実の残像としてこの部屋中を歩き回った。ベッドの上から眺めてネオンは、果たしてどちらが現実なのか、いや、どちらが失いつつある現実感なのかを分からなくしてゆく。
なら目の前で、ネオンはネオンへ振り返っていた。
何言ってるの? どちらもあたしじゃない。
無邪気に笑う。
その頬が、揺れて膨らんでいった。彼女は飛び散り、欠片は砂とネオンを飲み込む。
吸い込んでネオンはそう、と唇を震わせていた。
そう、バナールが腕を掴んで引きずり出したことに間違いはない。ここでは自分がアルトだったのだ。そのアルトは、ここでうんざりするほど時間の狭間を行き来すると、楽器を演奏するよう仕込まれ、大事にされたが相手にはされず、疲れ果てて心の底までを痺れ切らせて過ごしていた。それこそが探していた記憶であり、帰ろうとしていた場所。
だがようやく得たというのに、醒めたような感覚は一切ない。トラの元でドサ周りを続けていた時に願っていたような充足感は、これぽっちもわいてこなかった。ただ悲しくもわびしさばかりが募ると、触れたネオンを追いかけるグロテスクな亡霊となって、過去は不安に不快に恐怖と不満ばかりを押しつけてくる。
帰りたい。
『F7』の扉をくぐったとき感じた嫌悪感が、強くネオンの中へ舞い戻っていた。憑りつかれたように起き上がり、その腕に違和感を覚えて振り返る。そこに針は固定されていた。いつからか宙に吊られた透明の薬剤から、まさに機械的なテンポでもってしてネオンの中へ液体は流し込まれている。
得体の知れなさに、やおら肌が泡立っていた。目じりを吊り上げ、ネオンは針へ手を掛ける。引き抜こうと力を込めた。が、皮膚が突っ張るばかりで、針は抜けそうもない。だとして痛みなど問題ではなかった。力任せと繰り返せば、続く無茶に腕へ血は赤く滲み始める。
さなか、部屋の扉は開け放たれていた。
足音が慌ただしくネオンへ駆け寄ってくる。
かと思えば、肩を掴まれていた。
「何してるッ?」
「触らないでっ! はずすに決まってるでしょっ!」
ネオンは喚き、その手を振り払う。
「落ち着けッ」
とたん針を毟り取ろうとした手を取られていた。
「ただの電解質だッ」
言うが信用できる道理こそない。いや、記憶がそう訴えていた。
「離してっ!」
拒み暴れたなら、吊られた薬剤が引っ張られ、今にも土台ごと倒れそうに揺れ動く。見かねて埒があかないと、たしなめようとしていた手は突如、ネオンをベッドへ押さえつけた。
「何すんのよっ」
「動くな。それ以上引っ張れば静脈に傷がつくッ」
「離してっ!」
言ううちにも、押さえつけながら器用に薬剤の落下を止める。
「いやだっ!」
自由な手で滅多打つネオンをもろともせず、針の根元に突き出ていた細いアンプルのような突起を親指で弾き折った。破片を足元のダストボックスへ落とし、枕元のアルコール臭漂う代替綿花をつまんであてがう。その下から、針を抜き取った。おっつけ、こすり付けるように代替綿花で拭えば、無理に引っ張ってできた痣だけがネオンの暴挙ぶりを示してそこに、赤黒く残る。
「バイオゲージは剥離剤がなければ……」
などと講釈こそ感情にそぐわない。
ネオンは手を振り上げる。
口上垂れるその頬めがけ、叩き付けた。
鋭くも乾いた音は空気を裂き、言葉も尻切れトンボにアルトがあらぬ方向を向いたままで目を細める。
いや、これはセフか?
素材は違うが、白い上着が夢と同じだ。
とたん記憶が記憶を食った。
もう、どちらだってかまわない。
「あたしに触らないでっ! あたしは、あなたたちが好きに出来るモノじゃないっ!」
ネオンはその顔へ吐きつける。それは自分でもいやというほど甲高い、ヒステリックな声だった。
食らったアルトが自らを落ち着けるべく、そこで大きく息を吐き出している。やがてゆっくりと、その顔をネオンへ戻していった。
「分かってる。お前はネオンなんだろ?」
そう、叱られた記憶はない。アルトは何より混乱していた事実を、ネオンへ言い聞かせる。
見据えたネオンの唇は、とたんミシリと音を立てて歪んでいた。取り繕うなどもうできない。悲鳴にも似た声を上げ、ネオンは思いきり泣いていた。
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