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ACTion 61 『本当は誰も』



 引き裂く思いはまさに、あのとき口にできなかった感情だ。いや、できぬよう矯正されていた全てで間違いなかった。ほどこされていない今、思い出し始めたそれは溢れてネオンを急き立てる。だが吐き出そうとして追いつくハズもないなら、全ては嗚咽の合間からもれる叫びとなっていた。今や血の気が失せていたはずの頬は、叩かれたアルトの、セフポドのそれより赤味を帯びている。
 やがて枯れ果て、思いは涙にのまれていった。
 それでも言わずにおれない何かが、低い唸り声へと姿を変える。
「あたしは、もうイヤダよ……」
 頬には幾筋もの涙の跡がはりついていた。
「……かえしてよ。わたしを、わたしに、返してよ……」
 繰り返してアルトを覗き込んだ瞳は、感情になぶられるまま縮み上がっている。
「わたしをウチへ、帰してよっ!……」
 そうして掴んだものが宙だったとして、投げつけネオンが腕を振り下ろしていた。
 見えやしないにもかかわらず飛び行くそれが、弱々しい弧を描いて二人をつなぐ。
 見届けることなくネオンはそれきり、糸が切れたようにうつむいた。水を打ったような静けさの中、シーツを弾いて零れ落ちる涙の音だけが、ひどく単調なテンポを刻み続ける。
 ウィルスコーティングがほどこされていないなら、あの頃から嫌う薬品の匂いはしないはずだった。見つめてアルトは、有り合わせだった白衣の袖から腕を抜く。その白衣で、何も身につけていないネオンの肩を包みこんだ。前を合わせ、乱れたシーツを引き寄せてやる。
 何しろ苛立っていたシャッフルのせいで着の身着のまま滅菌ゲルの中へ放り込まれたネオンの服は、ゲルまみれでもう使い物にならない。全て脱がされ裸同然だというのに、言及しないネオンの混乱は、それほどまでにすさまじかった。
「時間はある。眠りたいだけ、眠ればいい」
 投げかけアルトは、その身を横たえさせる。力尽きたように従うネオンは、くるまれるままおとなしく、ただ目を閉じていった。
 そこに夢の続きは、再び広がる。
 記憶に残る眠りが今もネオンを手招いていた。
 ひどく疲れた今もまた、拒む道理などありはしない。
 ネオンはゆらり、身を預ける。
 傍らから、様子を確かめた足音が遠ざかるのを感じ取っていた。
「眠るまで……、ここにいて」
 ぼんやりと、呼び止める。
 だが答えが返されるまで、しばらく。
「……それは、イルサリでお前の志向性を調整する時だ。今は必要ない」
 声はようやく聞こえていた。
「あたし、見た」
 まどろみの中にいる今なら、思い出してもそれほど怖く感じていない。声へ向かってネオンは言った。
「あの部屋に、たくさんのあたしが、いた……。みんなが、こっちを見てた」
 消化し切れなかったあの時をやり直すように、少しずつ言葉を手繰り寄せてみる。
「たくさん、造ったんだ……。でも、いらないよね。あんなに。あたしは一人で、じゅうぶんだよ。あなただって、そう思ってる。だからあたしを奴らに渡したくなかった」
 まぶたを開けば、そこに広がる世界はまつ毛にたまった涙のせいであらゆるものが歪み、輪郭を失っていた。
「ここの記憶を塞いでも……」
 ただ足元から聞こえてくる声だけに耳を澄ます。
「塞いでも、演奏の方法を忘れなかったのは、記憶じゃなく機能としてお前の脳に組み込まれているからさ」
 言うアルトの切り出し方は、独特だった。
「その話、眠るまで聞かせて。あたしはちゃんと覚えていない。うううん。覚えていられないあたしだった。けど今は違う。今のうちに、全部知っておきたい。だってそれが、あたしだもの」
 そう願うほど取り戻し始めた落ち着きは、どうやらアルトを観念させたようだった。
「しばらく気づけなかったな」
 切り出す口調からは、それまであった力が抜け落ちている。
「ポッドに記されていたっていう、お前の名前。NEONE(ネオン)の意味が」
 ままに声は近づき、ネオンの足元でベッドをきしませた。
「11(ダブルワン)塩基。ONE-ONE。種族を識別するため、表記は造語じゃなかった。あの騒動の中、どこかで頭一文字、削り取られたんだ」
 腰かけ前かがみとなれば、滲む視界に少しばかりアルト髪は映り込む。見つけてネオンは安心したように、再び目を閉じていった。
「そう、足りないのさ。言葉だけじゃ。理解できるような意味だけじゃ。いや、そればかりじゃ多すぎるのかもしれない。生まれて白紙のその身へ刻む言語ってやつは、澱のように文化や風土や宗教的価観の、帰属すべく故郷って場所のDNAだ。埋め込まれて活動を始めたなら、誰だって剥がしようなく身体の一部になる。しかも言語活動は意識と意思の存在証明だ。譲れば代わりなんて用意されていない唯一の出所を疑うパラドックスなんて、ありはしない。だがそこにこそ、地域差や個人差、価値観の違いの根っこは潜んでいる。奴らは、バラバラに埋め込まれたそいつを取り払っいたいのさ」
 と、声のトーンはそこで跳ね上がる。
「意識の底にある、言葉にくるまれた生来のナショナリズムを。帰属意識、故郷とも呼ばれるカテゴリーを、操作できる一様のものに挿げ替えたいのさ。果たそうとして創造した造語は、船賊の出現で中途半端な結果に終わっちまった。ふまえてココを用意したはいいが……」
 途切れた先に熱はこもる。それはネオンの耳へ張り付き、紛らせアルトは一息、吐くと静かに続けた。
「連邦は新たな方法としてアナログ楽器と極Yトニック、かつて唯一、既知宇宙を制覇した言葉に頼ることのない二つの事象に目をつけている。過去、二つの事象は暴走したが、そいつをお前に内包させてお前を通してコントロールできる状態にするつもりだ。見たろ? 共鳴した船賊たちの船の中での騒動を。アズウェルの騒ぎもだ。モデリングは大成功かもな」
 口調はいっとき皮肉を帯び、舌打ちかき消す。
「ばら撒いて、既知宇宙内全てをああしたいらしい。そのために楽器も全て回収されると、元からあったアナログ文化も根絶やしと白紙に戻されている。言いたかないが」
 そう呼びかけるアルトの声には、砂を噛むようなざらつきがあった。
「お前が見たものも、お前自身も……」
 そうして言う顔色が見て取れるほど冴えない響きを、ネオンへ伝える。
「……このプロジェクトのため連邦所有の合成塩基11からラボで生成されたソプラノ、アルト、テナーのうち第二号有機体、アルト。そう名乗っていた俺は、そのプロジェクトのために生成されたラボ従事者、セフポドだ」
  だがネオンに同じだけの重みはない。むしろ告げられ、ほっと胸をなでおろしていた。それはちょうど、穴だらけだった地図がようやく埋め合わされたような、せいせいした気分さえ感じ取れるほどにあっけなかった。
「そう」
 答えてまぶたを持ち上げる。
「じゃ、あたしがいると、みんなに悪いよね」
 銃口を突きつけられるわけだと、思う。
「いいか悪いか……何が正しいのかなんて、誰にも分かりはしない。ただ俺は……」
 取り繕ってアルトの言葉は上滑り、やがて足場をとらえなおしたかのように慎重と言い直していた。
 「ただ俺は、そうまでして奴らが躍起になるモノと付き合ううちに、自分にそれが欠片もないことに気づかされただけだ。形は備わっていても、それは奴らの意図の元に造り上げられたものだった。そう、俺の底には、このラボで生成された奴らの全てには理屈抜きの、間違いなく有ると思える意識の絶対不動な根拠が、ない。しょせんは奴らの魂胆にすり替えられる、意思と意識の持ち主でしかないってわけだ。そうだ、俺なんて主張できるモノは、本当はどこにもいない。……装っただけの無だってね」
 そうして途切れた言葉がそこに、暗く黒い穴をうがつ。
「だが、奴らが変えたい世界ってのは、そういうもんだ」
 振り払いアルトが声を張っていた。
「思い通りいかないその不都合を取り払って、理屈通り自由に掌握すれば、された方はそうなるしかない。なくせばどれほど空しいものか、奴らは分かっちゃいないんだ。物理的に生きているだけじゃダメだ。いまだ定義することのできない生命の一部には定義を拒む、誰の思惟にも触れない絶対的なものが必要だってことを分かっていない。その吸引力で個は無条件に個を保ち、軸に意思は回っている。人はそんな言語の、意識の種を、神と言ってのけた時代もあったが、そいつを消して、ましてそのうえで全てを操作しようなんてのは」
 言い切った声に固い響きは混じる。
「たまらなく酷い話だ」
 だからといってネオンに同意を求めるはしなかった。ただ小さく鼻で笑った気配が揺れる。
「……て、こんな話じゃ、眠れないよな」
 つられてネオンも微かに唇を緩めていた。
「いいよ、別に……。あたしは……、帰りたいだけだった。そんな故郷(ばしょ)、なくたって、ここからウチへ帰りたいだけだった。そのために靴も、楽器も……」
 想像して影を追いかける。
 音はどこからともなく降り注ぎ、それれもここにわたしは有ると、ネオンへ語り続けていた。
 なるほど、神と思えばそれは、それはそんな天からの福音に違いない。
 けれどそうして手繰る自分が世界中から、それを奪うのだとしたら。
 あるからこそ意見は割れて、こうしてどこかで誰かが果てなくいがみ合うのだとしたら。
 開けても開けても出てくる箱の底には、こう書いてある。
「完璧な世界」
 そうしていつからかどこからか、ネオンは望んでいた眠りの中へ迷いこんでいた。仮死ポッドの中とは違い、繰り返す満足げな寝息に深くその胸を揺らした。
 耳にしたからこそ、アルトは振り返る。
「本当は誰も……、どれだけいがみ合おうと、誰も独りにはなれない。……だからって、まとめられてひとつにもなれないのさ」
 ようやく穏やかさを取り戻したその顔へ、言っていた。
「そのわずらわしさをかいくぐるのが、生きている証拠なんだ。命は、言葉にほどけたりしない存在の不条理で呼吸してるってハナシだ。トニック動話の志向性を残したことがその一因だとしても、あのときこのラボの中で唯一、お前にはゆるぎないその命の匂いがしていたよ」
 思い出すほどに、切なさはこみ上げてくる。
「そんなお前が紡ぎ出す意思で、少なくとも初めて俺の前に、言葉に解けないモノの存在を示してくれた。そいつでありはしないと思っていた俺の中へ、俺自身の言葉を植え付けた。俺にとって、お前は理解に苦しむ初めての『他人』だ」
 だが世界にそれを残したいがこそ、己にとっての唯一を撃ちぬくのかと想像する。浮かべた笑みは、おのずと皮肉なものにならざるを得なかった。
「お前のこだわりじゃないが、俺のクツは、自由に動くために必要なクツは、お前なんだ、きっと……。裸足じゃどこへも行けやしなかった。どれだけ体が動こうとも、意思なんてものは欠片も動きはしなかった」
 でなければプロジェクトの真意を漏らしたシャッフルの言葉に踊らされたところで、あれほど好戦的には振舞えなかっただろう。
「そうだな、故郷を離れすぎた者がイルサリ症候群に憑り付かれるように、無くせばきっとまた無に戻る。ただそれだけが……」
 立ち上がっていた。
「今は死ぬほど怖い、な」
 認めざるを得ないなら、皮肉だろうと笑みすら浮かばず、ままにアルトは傍らに立つ薬剤へ手を掛ける。引きずり歩き始めたところで、ふと我に返っていた。
「そうさ」
 吐き出せば、空を睨んで両目は見開かれてゆく。
「誰も、極Yも、連邦も、だから……」
 繰り返していた。
「だから譲れやしないんだ」


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